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007 カジノ・ロワイヤル [アメリカ映画(00s)]


Casino Royale (2006)

英国のスパイ、ジェームズ・ボンドが活躍するシリーズの21作目であり、新しいボンドの登場する話題作です。

皆さんは007シリーズをご覧になったことがあるでしょうか?
今回は、まず007についてお話しします。

イギリスの作家、イアン・フレミングは、1953年から自らの体験をもとにジェームズ・ボンドというスパイの活躍する小説を書き上げます。この小説はシリーズ化され、世界的に人気となります。結局フレミングは第一作である「カジノ・ロワイヤル」から全12作品を世に送りだしました。

<007映画の歴史>
1960年頃、映画プロデューサーのアルバート・ブロッコリは、一連の007シリーズが映画に向いていると感じ、フレミングに映画化の権利を譲ってもらえないか打診します。しかし、映画化権はハリー・サルツマンという別のプロデューサーに渡してしまっていました。そこでブロッコリは、サルツマンと手を組んでイオン・プロダクションという製作会社を設立し、007映画を作ることにしました。配給はユナイテッド・アーティスト(UA)が担当することになりました。
一番、映画に向いていると感じたのは6作目の「ドクター・ノオ」で、1962年に映画として製作されました(日本語タイトルは「007は殺しの番号」)。この映画がきっかけで007シリーズは映画でもシリーズ化されていきます。
初期の数本は、B級映画のようでクオリティが高くありませんでしたが、次第にアクション映画としてのステイタスを高め、人気は衰えるどころか世界でヒットしていきます。

007の映画シリーズは、第5作目の「007は2度死ぬ」(1967年)で日本を舞台に撮影されました。そして「ゴルゴ13」や「ルパン3世」などに大きく影響を与え、当時は日本でもかなりの人気があったようです。

しかし、ロジャー・ムーアがボンド役を務めるようになった70年代からは、映画が飽きられ、だんだん観客動員も減り、シリーズは勢いがなくなっていきます。
原作も尽き、オリジナルのストーリーを考えなければならなくなった80年代後半には、起死回生を狙ってボンド役をティモシー・ダルトンにし、原点に戻り映画制作を試みますが、ダルトンの007は、観客には受けませんでした。
この頃は、配給を行ってきたMGM/UAもほぼ消滅状態となり、シリーズは終わってしまうのではないかと危惧されました。

背水の陣で、イオン・プロダクションが取った策は、観客に喜ばれるジェームズ・ボンド役を探すこと、そして観客が喜ぶストーリーを考案することでした。新たに007に選ばれたのは、ピアーズ・ブロズナンです。この堂々とした俳優が演じた「ゴールデン・アイ」(1995)は、世界的に大ヒットします。007シリーズは、息を吹き返したのでした。この作品の後、ブロスナンは3作品に出演し、新しい007像を作り上げました。

<亜流映画の登場>
これまで、007シリーズにあやかって、様々な亜流映画が生まれました。皆さんが知っているのは「オースティン・パワーズ」シリーズなどでしょうか。「インディ・ジョーンズ」シリーズもスピルバーグが007シリーズを作りたいという話からはじまったものです。
なかには007を名乗る映画も出現しました。1967年にはピーター・セラーズやウッディ・アレンが出演するコメディ「カジノ・ロヤイヤル」、1983年にジェームズ・ボンド役を降ろされた初代007のショーン・コネリーが「サンダーボール大作戦」をリメイクした「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」があります。

2000年頃から、コロンビア映画を買収したソニーは、目玉となるシリーズ映画を探します。そして、儲かるシリーズものは007だと考えました。既に原作は映像化されてしまったので、本家ですらオリジナルではないストーリーを開発しているのだからソニー・ピクチャーズも勝手にストーリーを考えてソニー版007を作ってしまおうというわけです。
これには、イオン・プロダクションから待ったがかかり、裁判へと発展してしまいました。

<新シリーズの登場>
その後、ソニー・ピクチャーズがMGMを買収してしまったことから、混乱は収まります。MGMを所有しているソニーが堂々と007シリーズを配給できるようになったのです。製作はこれまで通りイオン・プロダクションです。
そして2006年、新作の企画が実現化します。人気のあったブロズナンは歳を取りすぎているということで降板します。そして新ボンドにはクリスチャン・ベール、エリック・バナ、ヒュー・ジャックマン、ユアン・マクレガー、ジュード・ロウ、オーランド・ブルームなど蒼々たる人気俳優の名前があがり話題となりました。結局、新ボンド役を獲得したのはイギリスの俳優、ダニエル・グレイグでした。
ストーリーは、新たに作ることなく、フレミングの原作としました。実は1作だけシリーズで映画化されていない作品があったのです。それが「カジノ・ロワイヤル」でした。かつてピーター・セラーズらによって作られた「カジノ・ロワイヤル」は、イオン・プロダクションが製作したわけでもなく、ストーリーも原作とは異なっていました。今回は原作に忠実に映画化するということにしました。
そうはいっても、「カジノ・ロワイヤル」は007シリーズの第1作目にあたるので、それなりに脚本に変更を加えなくてはなりません。そこで新たに脚本に加わったのが「クラッシュ」「硫黄島からの手紙」でアカデミー賞を受賞したポール・ハギスです。ハギスは見事に現代版「カジノ・ロワイヤル」の本を完成させました。

<タイアップ>
007シリーズで、ボンドは、イギリスの名車アストン・マーチンに乗り続けてきました。しかしヨーロッパが統合されると、車はBMWに変わってしまいました。これはBMWの巧みな宣伝戦略に映画サイドが便乗したのです。結果BMWに乗ったボンドのCMが世界中で流れ、BMWは売れに売れました。その後、ファンからボンド・カーはアストン・マーチンだという抗議の声が寄せられたという噂です。ボンドはまたアストン・マーチンに乗るようになりました。
さて、本作はどうでしょう。ボンドはアストン・マーチンのDBSに乗っています。しかしアストン・マーチンの親会社であるフォードの要請か、至る所でフォード車を見かけ、ボンドもフォード車を運転したりします。先日、フォードはアストン・マーチンをファンド会社に売却してしまいました。次回作のボンドカーがどうなるのかみものです。
ボンドが使う電気機器は、全てSONYです。これは、ソニー・ピクチャーズが製作・配給のためしかたがないのですが、露骨にSONY製品ばかり登場するのです。この現象は今後も続くでしょう。

このように、007シリーズは、時代の波に押し流されながらなんとか生き延びてきました。そして、「カジノ・ロワイヤル」は、シリーズのなかでもなかなかの出来映えです。新ボンドのグレイグも予想よりも遥かに頑張っており、公開後ファンから指示されています。

次回作は「カジノ・ロワイヤル」の続編となるストーリーだそうです。タイトルは決まっていませんが「カジノ・ロワイヤル2」だったりしたら驚きです。さて、これから世界の時流にどうのって007が生き延びていくのかとても楽しみです。

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スパイダーマン 2 [アメリカ映画(00s)]


Spider-Man 2 (2004)

以前、このブログで「スパイダーマン」を紹介しました。監督のサム・ライミは、自分のイメージした「スパイダーマン」を見事に映像化して映画は大ヒットしました。この映画、実はライミ監督の「ダークマン」と構造が極めて似ていることもお伝えしました。

さて、今回は、その「スパイダーマン」の続編についてです。

皆さん、ご存じのように「スパイダーマン」の大ヒットを受け、ソニー・ピクチャーズは続編の制作にグリーン・ライトを灯します。今回は1の契約時に監督やメインキャストと交わしたあと2本のオプション契約を行使することになりました。つまり映画の続編は「スパイダーマン2」と「スパイダーマン3」が作られるというのです。
最近の映画の契約では、続編2本のオプション契約が締結されることがおおくなってきたようです。これは「スターウォーズ」の頃から行われるようになったのではないでしょうか。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も「マトリクス」「パイレーツ・オブ・カリビアン」なども同じような契約で、後に2本同時制作されています。

「スパイダーマン」では、1の公開中に関係者に打診が行われました。サム・ライミ監督は快諾し、直ぐに脚本の制作を始めたようです。ちょっと揉めたのは役者で、トビー・マクガイアは、腰痛を理由に降板の可能性を示唆しました。これはおそらく本人というよりマネージメント・サイドの交渉だったと思われます。トビーがスパイダーマン役を降りたら困るだろうからダダをこねてギャラをアップするのが狙いだったのでしょう。しかしライミは明確に応えました。「やりたくないなら出なくていい」。そしてソニー・ピクチャーズは、主役ピーター・パーカーにジェイク・ギレンホールを起用するという行動に出ました。これによりトビー・サイドは軟化し、続編の出演がすんなり決定しました。

第2作目となる本作には、いくつかの要素が盛り込まれることになりました。まず、ライミは、新たに脚本家チームにアルビン・サージェントを加入させ、新しいドラマを作り出すことにしました。今回は、漫画「アメージング・スパイダーマン」第50回の"Spider-Man No More!"をベースにすることにし、敵はドック・オックというキャラクターになりました。そして、ピーター・パーカーの私的な人生とスパイダーマンとしての公的な人生という二重生活を描くことにしました。「スパイダーマン」が世界的にヒットした理由は、ここにあります。ただのヒーローと敵との戦いだけを描くことなく、主人公の内面をきっちりと描いているのです。

撮影は2002年11月から全米で行われました。ニューヨークの街として登場するほとんどの部分は実はシカゴで撮影されています。撮影にはスパイダーカムという不思議なカメラが使われました。このカメラは小型でワイヤーの上をケーブルカーのように移動することができるのです。最近だと野外イベントやスポーツイベントで見かけますが、長いワイヤーを張り、そのワイヤーの上を自由に稼働するカメラです。今回はそのワイヤーの長さがかなり長く高低差もつけられました。
スタッフはシカゴの撮影場所をビルも含め3DCGでコンピューター上に作り上げます。そして、どこにワイヤーを張れば、一番効果的な映像が撮影できるかを検証したのです。そして、監督のOKが出ると、実際に街に長い長いワイヤーを張って撮影したのです。だから、映画に出てくる街をスパイダーマンが飛んでいる映像のおおくは本物の映像なんです。そこにCGのスパイダーマンを重ねているわけです。何故全部をCGアニメにしなかったのか、おそらくサム・ライミはリアルな映像を求めたのではないでしょうか。彼の過去の作品も一貫してリアルな映像に拘っています。できるだけCGで作った「ありえない」映像は避けたかったのでしょう。
この映像制作は、映画全体に良い影響を与えました。実際にはありえない「スパイダーマン」というキャラクターにリアリティを与えたのです。映画を見ている間、観客は、スパイダーマンに違和感を抱かないのです。

2の製作過程で残念なことがひとつ起こってしまいました。それは、音楽を担当していたダニー・エルフマンとサム・ライミが衝突してしまったことです。これによりエルフマンは途中降板してしまいました。よって3にはエルフマンは参加していません。この音楽家の交代により3の音楽が非常に弱くなってしまったのは否めません。

映画は、素晴らしいポスト・プロダクション・チームにより完成され2004年に公開されました。この第2作は、ピーター・パーカーがスパイダーマンになっていく過程を描く必要がなかったため、よりドラマに主軸がおかれ、映画として完成度の高いものになりました。
世界的に3作の中で一番評価が高く、ハリウッド映画ファンだけでなく、映画批評家からも高い人気を得ました。

サム・ライミ監督映画に必ず出演しているブルース・キャンベルは、1のリング・アナウンサーに続き2ではドアマンとして登場しました。ちなみに3ではレストランの受付役で観客の笑いをとっています。

「スパイダーマン2」には別バージョンが存在します。2007年4月にアメリカのFXケーブルで放送されたバージョンで、映画版に8分新しい映像が追加されています。

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ゾディアック [アメリカ映画(00s)]


Zodiac (2007)

セブン」のデビッド・フィンチャー監督が5年ぶりにメガホンをとったサスペンスの傑作です。

1969年、サンフランシスコの住民は、ある事件に恐怖しました。その事件とは、その後数年間に渡り発生する連続殺人事件です。この一連の事件は「ゾディアック事件」と呼ばれました。

この連続殺人犯は、自らを「ゾディアック」と名乗り、自分の犯した殺人事件をまるでゲームのように楽しんでいきました。彼は犯人にしか知ることのできない情報や暗号文を新聞社に送りつけ、それを新聞に掲載するように脅迫します。その結果、新聞紙はこの事件を大きく取り上げ、警察や記者達が翻弄させられていきます。

この事件は、世界的に有名となりクリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」で事件が模倣されています。この映画が公開された当時、犯人はまだ捕まっておらず、警察は犯人が映画を見に来るのは確実だとして連日映画館を監視しました。

これほどまでに謎に包まれ、人々の関心を集めた連続殺人事件ですが、結局犯人は特定できず人々の記憶から忘れ去られていきました。

しかし、この事件の裏で熱心に調査をしていた人物がいました。サンフランシスコ・クロニクルという新聞社で挿絵を描いていた漫画家ロバート・グレイスミスです。彼は、事件が起こり犯人から暗号文が送られてくると、それを熱心に解読します。そしてゾディアックという犯人をじわじわと探り出していったのでした。といっても彼には捜査権もなければ記者という立場でもないわけで、一般市民が調べるにはいろいろと限界がありました。それでも彼は、できる限りの調査をしていきます。

世の中は「ゾディアック事件」に関心を示さなくなってきました。しかしグレイスミスは地道にひとりで調査を行っていったのです。その成果が「ゾディアック」という1冊の本にまとめられました。

この本は、発売時注目され、直ぐに映画化権が売られましたが、その後10年間は映画化にまで至りませんでした。事件を扱うのが難しかったのでしょう。その映画化権を新たに入手したのがプロデューサーのバンダービルトとブラッドリー・フィッシャーです。彼らはこの原作を映像化できるのは一人しかいないと思っていました。

デビッド・フィンチャー監督は、幼い頃サンフランシスコで生活をしていて「ゾディアック事件」を身近に感じていたはずです。彼はプロデューサーから持ち込まれた企画に飛びつきました。そして「切り裂きジャック」依頼の有名な連続殺人事件をテーマにするというよりも、ひとりで地道にこの事件を探ったロバート・グレイスミスに焦点を当てようと試みたのです。

映画は、徹底したリアリズムで撮影したいと監督が強く望み、それを制作陣が受け入れました。1970年前後のサンフランシスコを忠実に再現するという困難な問題をスタッフはひとつひとつクリアーしていきました。オープニングのサンフランシスコの夜景は、おそらく実際に撮影した映像にCGI処理を加えてあるはずです。観客は、この映像を何の違和感もなく受け入れるでしょう。しかしその映像は現在のサンフランシスコの景色とはかなり異なっています。そして、ストーリーが進むと、街の至る所に現在ではありえない光景が登場してくるのです。映画はストーリーが一番重要です。よってこのような細かな美術に関しては見過ごしがちですが、ほんのちょっとしか写らない看板などまで全てが70年当時の景色となっています。これにより、映画がその当時に撮影されたような不思議な感覚に陥るのです。そして主人公のグレイスミスを演じるジェイク・ギレンホールもまた徹底したリアリティを追求しています。彼の容姿は当然、演技もまるで1970年そのままです。

監督は、このリアリティに溢れる世界で起こる恐ろしい事件と、その事件に翻弄される人々の心を丁寧に描いていきます。私は、息をすることも忘れてストーリーにのめり込んでいくような気分に陥りました。

この映画、実は世界で初めてヴァイパーというフルデジタルカメラで全編撮影された歴史に残る映画でもあります。このヴァイパーというシステムは撮影時にフィルムと同等の映像データをハードディスクに取り込むことが可能です。よって、撮影後に監督とカメラマンは、編集室で「現像」を行えるのです。「現像」で、色彩設定やピンをいじることができるのです。これは通常フィルムで行っていた作業と同じです。今までのデジタルカメラでは、この「現像」ができませんでした。撮影現場で色やピンを決めてしまうので、後では画質をいじることができなかったのです。膨大な映像データを蓄積し、後で自由に画を変更できるヴァイパーを使い、フィンチャーは、時間をかけ自分の望む映像を手に入れました。

長い時間をかけ、フィンチャーは新作「ゾディアック」を完成させました。今回の作品は、映像的には映画史に残る素晴らしい作品となりました。内容的には、フィンチャーの今までの経験を活かした新しいステップに到達していると思います。ストーリーと映像が非常に高次元で融合しているのです。皆さんがご覧になってこの作品をどう感じるのかとても知りたいですが、映画業界に従事している人々にとってはとても刺激的な作品であり、非常にレベルの高い演出に驚かされる作品でもあります。

フィンチャーは、今後映画をフィルムで撮らないと宣言しています。今後はヴァイパーでの撮影を見据えているのでしょう。それほどまでに作品の空気感を大切にしたいのでしょう。そして、次回作ではおそらく「ゾディアック」とは全く違う空気を我々に見せてくれるのではないでしょうか。

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ラストキング・オブ・スコットランド [アメリカ映画(00s)]


The Last King of Scotland

ウガンダの大統領で独裁政権を引いたイディ・アミンの半生を、彼の専属医師であるスコットランド人からみた同名小説の映画化。
アミンを演じたフォレスト・ウティカーは第64回ゴールデングローブ賞第79回アカデミー賞などおおくの映画賞で主演男優賞を受賞しました。

イギリスのジャーナリスト、ジャイル・フォーデンが1988年に発表した「ラストキング・オブ・スコットランド」(邦題は「スコットランドの黒い王様」)は、世間に衝撃を与えました。ニュースでは報道されてイメージだけは知られていた「人食い大統領」と呼ばれたアミン本人のキャラクターが詳しく書かれていたからです。この小説により、初めて彼が犯した恐ろしいまでの粛正や悪政が世に知られるようになりました。
しかし、この小説は、全てがノンフィクションではありません。全体の流れや歴史的事実は本当にあった出来事ですが、主人公のスコットランド人ニコラス・ギャリガンという人物は実在せず架空のキャラクターです。この部分が事実とは異なります。

主人公ギャリガンは、ウガンダで僻地医療に携わるため、スコットランドからやってきますが、ある事件がきっかけとなり、当時クーデターで大統領に就任したアミンのお気に入りとなります。そして、僻地から首都に招待され、その後大統領付の医者としてアミンと行動を共にします。その過程でギャリガンはアミンの没落をつぶさに目撃することになります。理想を持った新しいリーダーとして人々に指示されたアミンは大統領就任直後から悪政を行い、数十万人という国民を虐殺します。そして信用できなくなった側近も次々に暗殺してしまいます。ギャリガンも、その政治に翻弄されていくのでした。

フォーデンは、実際にアミンが大統領だった時代から、何度もウガンダを訪れ、綿密な取材を行ったようです。彼は、様々な新聞や雑誌にウガンダの惨劇を書き、世界に情報を発信してきました。そして、その集大成としてこの小説を書き上げたのです。

発刊にあたり、フォールデンは、架空の人物である主人公ギャリガンのモデルが実在することをインタビューで語っています。モデルはボブ・アストルスというアミンの側近で、ウガンダの軍部に在籍した若いイギリス人だそうです。彼は、小説の主人公よりもアクティブで、アミン政権に関わっていたようですが、彼もアミンからは拷問を受けた経験があるそうです。アミン政権崩壊後は、刑務所に長い間収監されてしまいました。アストルスは、1985年に祖国イギリスに戻り静かに生活を送っています。

この小説を映画化しようと動いたのは、スコットランド人のケビン・マクドナルドでした。彼は、原作をできるだけ忠実に映像化することを望んだのです。この企画自体は、イギリス内でも話題になり比較的スムーズに出資が決まりました。DNA Filmが制作の中心となりFilm FourやアメリカのFoxなどが賛同し撮影は開始されたのです。アミン役にはこれまでも演技で定評のあるフォレスト・ウティカーが抜擢されました。

完成した映画は、Fox Searchlightという20世紀フォックス参加のアート系配給会社により2006年9月にアメリカの少数の劇場で封切られました。そして2007年にイギリスをはじめ世界中で公開されました。どの国でも限られたスクリーンでの上映でしたが、作品は大絶賛されます。そして徐々に公開劇場が増えていきました。

その結果、世界中の映画賞にノミネートされ、様々な賞を受賞する2006年度を代表する名作となっていったのです。

ひとりの人間が理想を掲げ、ある地域のリーダーとして民を率いますが、次第に私欲のために国や都市を利用し始め、おおくの民が辛い目に遭うという図式は、長い歴史上何回も繰り返されてきました。ここ日本でも、アミンのような大虐殺はないにしても同様なことが起こってきましたし、現在もおこっているのです。この映画を通して、人は何故私欲に走るのかがかいま見えたような気がしました。

映画としても優れていて、ずっしりと重いテーマが含まれている名作です。


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ドリームガールズ [アメリカ映画(00s)]


Dreamgirls(2006)

1981年12月20日、ニューヨークのブロードウェイでひとつのミュージカルが上演されました。タイトルは「ドリームガールズ」。実在の3人デュオ、シュープリームスとモータウンレコードをベースにアフリカンアメリカン歌手の成功秘話と当時の世相を舞台化したものです。

このミュージカルは、ブロードウェイで大ヒットを記録し、翌年のトニー賞で6部門を制覇しました。ミュージカルは、その後世界中で上演され高い評価を得ました。

舞台の成功が確実になった直後の1982年に、このミュージカルを映画化しようという企画が持ち上がります。ブロードウェイミュージカル版に出資していたゲフィン・レコードの社長であるデビッド・ゲフィンは、「ドリームガールズ」の映画化権を獲得し、ミュージカル版の監督だったマイケル・ベネットと共に映画用の脚本開発に着手します。しかし、この開発は1987年のベネットの死により中断してしまいました。

その後、ゲフィンは、ワーナーブラザースの映画制作会社としてゲフィン・ピクチャーズを設立します。彼は新しい会社で新たに「ドリームガールズ」の映画化に着手します。今回のパートナーはミュージカル版のプロデューサーであるハワード・アッシュマンです。企画は順調に進み、主演のディーナ役にはホイットニー・ヒューストンが決定しました。しかし、ヒューストンは主演のディーナともうひとりのドリームガールであるエッフィ2人の歌を歌いたいと主張します。これでは、ミュージカル版と映画は遊離してしまいます。オリジナルのミュージカル版の持つ素晴らしさとヒューストンの主張はかみ合わず、結果、映画版「ドリームガールズ」は、またしても中止されてしまいました。

1994年、ゲフィンは、スピルバーグ、カッツェンバーグと一緒に新しい映画スタジオであるドリームワークスSKGを設立しました。この時点で「ドリームガールズ」の映画化権はワーナーブラザーズに残っていました。ワーナーブラザーズは、映画化を諦めておらず、ティナ・ターナーの自伝を映画化した「What's Love Got to Do with It 」(1993)のヒットを受け、積極的に映像化に動き出します。
主演は、ディーナ役にローレン・ヒル、エフィ役にケリー・プライスが決まります。しかし、フランキー・ライモンの自伝を映画化した「Why Do Fools in Love」が興行的に失敗すると、ワーナーは「ドリームガールズ」の映画化企画を急に中止してしまいました。

この後、しばらくは「ドリームガールズ」の映像化に関しては動きが止まってしまいました。次に動き出すのは、「シカゴ」がブロードウエイと映画の両方で成功を収めるまで待たなくてはなりませんでした。

2002年、「シカゴ」の脚本家であるビル・コントンは、プロデューサーのローレンス・マークとあるパーティで出会い、「ドリームガールズ」の映画化に関して話をします。「シカゴ」の映画版で評価されたコントンが手がければ「ドリームガールズ」の映画版もヒットすると確信したマークは、映画化権を保有するデビッド・ゲフィンを訪ねます。

コントンの脚本は舞台と異なる部分がいくつかありました。そのうちのひとつは、舞台がシカゴからデトロイトに変更されていることでした。実際、シュープリームスの出身地とモータウンレコードの発祥はデトロイトでした。ミュージカル版で舞台をシカゴに変更していたのを事実に合わせようという試みです。そのほか、ミュージカル版で、事実と異なって描かれたキャラクターたちもより現実に近い形に変更されました。この変更は、映画版のほうがより事実に近いということを意味します。

コントンの脚本で再び動き出した映画化ですが、ひとつだけ問題がありました。この時点でも映画化権はワーナーブラザースが保有していたのです。ワーナーは、「シカゴ」のヒットを受け、コントンの企画に出資することを決めます。しかし、映画の制作費が$73,000,000という高額になることがわかり尻込みしてしまいます。結果、ワーナーは出資を諦めます。

映画版「ドリームガールズ」に関し、常に障害となったのはワーナーブラザースでした。ワーナーのエクゼクティブ達は、他の映画のヒットや失敗を気にしながら企画にGOサインを出すかどうか探り、常に直前で及び腰になっていたのがわかります。このように、スタジオエクゼクティブと映画のクリエイティブは常に戦いを繰り広げています。
いつの時代も映画スタジオの連中は、どんな映画がヒットするのか分析できずにいます。SFがヒットすると、2匹目のドジョウを狙います。ラブストーリーがヒットすると誰もがラブストーリーにGOサインを出すのです。1作ヒットするとすぐに続編を作ってしまうのもスタジオエクゼクティブの悪い癖です。映画の制作チームであるクリエイティブの人々は、企画から立ち上げ、熱心にそして愛情を込めて映画作りに専念します。よって自分たちが作る映画は観客に受け入れられると信じているのです。

さて、ワーナーが遂に関わりを絶った映画版「ドリームガールズ」は、ここで中止されることなくコントンを中心に突き進んでいきます。捨てる神あれば拾う神あり。今回は パラマウント・ピクチャーズ が出資を決めたのです。これにより、映画はパラマウント・ピクチャーズとドリームワークスSKG提携作品となりました。

キャスティングは、最高のメンバーとなっていきます。レコード会社を立ち上げR&B界に君臨するカーティス・テイラー役には、デンゼル・ワシントン、ウィル・スミス、テレンス・ハワードなどが候補に挙がりましたが、「レイ」でアカデミー賞を受賞したジェイミー・フォックスに決まりました。
物語の中心となる歌手ディーナ・ジョーンズ役にはビヨンセが決まりました。過去にホイットニー・ヒューストンやローレン・ヒルが演じることになっていた大役です。ビヨンセは、この役を得る前にオーディションを受けています。ビヨンセの演じるディーナのモデルはダイアナ・ロスです。3人組の歌手の仲違い、そしてソロでの活躍など、ダイアナ・ロスが体験した人生は、実はビヨンセも経験しているのです。ご存じの通りビヨンセは3人組グループ「ディスティニーズ・チャイルド」のメンバーでした。このロスとビヨンセの共通点はあまりにも似ています。ビヨンセはこの偶然に驚いたことでしょう。出演が決まった2005年から彼女は熱心にダイアナ・ロスについて研究を始めました。そしてダイアナ・ロスに容姿を似せるため10K体重を落としました。
そして、もうひとりの主役であり、この映画のクオリティを左右するエフィ・ホワイト役には人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」で人気だったファンタジア・バリーノとジェニファー・ハドソンが候補に挙がりました。最終的にはデビッド・ゲフィンがバリーノを拒否したため、ハドソンがこの役を射止めたのです。
レコード会社の看板ジェームス・アーリー役にはエディ・マーフィーが決まりました。

映画は2006年8月に撮影が終了され直ぐにポストプロダクションが始まりました。そして同年12月にニューヨークでプレミア上映が行われました。映画は12月15日に封切られ、パラマウントとドリームワークスには、映画が大ヒットしたという通知が届きました。そして公開は順次世界中に広がり、全ての地域で大ヒットしていきます。
各地の批評はとても好意的でした。映画はさらに人を集め、最終的には2006年を代表する映画となっていったのです。

2007年に入り映画賞が始まると、ほとんどの映画賞で「ドリームガールズ」はノミネートされました。第79回アカデミー賞では8部門にノミネートされ、新人のジェニファー・ハドソンは、最優秀助演女優賞を受賞しました。

ゲフィンの「夢」だった映画「ドリームガールズ」は、企画から24年後にドリームワークスが制作し遂に現実となったのです。そしてその夢は、彼の予想よりも大ヒットして、映画史に残りました。

<後日談.....>.
企画を混乱させたワーナーブラザーズは、結局大金を直前に失ってしまいました。そしてギリギリに出資を決定したパラマウントは、ワーナーが長い年月と費用を費やした企画を得、大金を手にしたのです。これこそがまさにハリウッドです。このドラマもそのうち「ドリームフィルム」という映画になるのではないでしょうか。
ゲフィンが作ったドリームワークスSKGは、2006年パラマウントピクチャーズに吸収されました。この作品がきっかけではないと思いますが、もしワーナーが出資をしていたらスタジオの歴史が変わっていたかもしれません。

<実在の人物と映画のキャラクターについて>
この映画は実在の話をベースに作られています。ドリームガールズは60年代に大人気だったグループ、シュープリームスのことです。エフィ・ホワイトは、フローレンス・バラードのことです。ディーナ・ジョーンズは、もちろんダイアナ・ロスをイメージしています。カーティス・テイラーは、モータウン・レコードを創立したベリー・ゴーディ・Jr.をベースにしています。ジェームス・アーリーは、実在の人物ではなくジェームス・ブラウン、マーヴィン・ゲイ、ジャッキー・ウィルソンを合わせたキャラクターです。シュープリームスの楽曲を作ったC.Cホワイトは、スモーキー・ロビンソンを含む楽曲制作チームを1人に擬人化したキャラクターです。映画ではエフィーは、ソロとして成功しますが、現実は、そううまく行かず、フローレンスは辛い人生を歩みました。

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硫黄島からの手紙 [アメリカ映画(00s)]


Letters from Iwo Jima (2006)

クリント・イーストウッドが再び生み出した傑作です。
今回は、硫黄島の戦いを日本軍の兵隊の目線で描いています。

ミリオンダラー・ベイビー」でアカデミー賞を受賞し、今や俳優としてというよりも監督として知名度のあるクリント・イーストウッド。彼は、アメリカが第二次大戦で犯した戦争の闇に焦点をあて、「父親たちの星条旗」(2006)という映画を次の題材として選びました。そこには、現在進行形で行われているイラク戦争に対するアメリカの過ちを否定したい気持ちがあったはずです。しかし、イーストウッドは、現アメリカ政府に不満をぶつけるというカタチではなく、映画で一般市民に静かに訴えかけてきたのでした。
この映画を制作するにあたり、原作の映像化権を有していたスピルバーグが協力することになり、さらに脚本に「クラッシュ」でアカデミー賞を受賞したポール・ハギスが参加するという豪華スタッフとなったことは、以前記しました。

父親たちの星条旗」の制作準備中に、イーストウッド達はアメリカ側と日本側双方の資料を集め、綿密にリサーチを行いました。そこには、当時の悲惨な状況しかありませんでしたが、「日本兵の苦悩」についての情報もおおく含まれていました。それまでの戦争映画は、主人公であるアメリカ人の目線から描かれており、いつの時代も敵国の兵隊はアリのように様々な場所から湧き起こり、アメリカ兵の弾丸に次々倒れていくという描写ばかりでした。しかし、敵の兵隊にも愛する家族があり、アメリカ人と同じように感情があることを、スタッフは資料から読み解いていったのでした。そこには、戦場から妻や子にあてた美しい心がおおく記されていたのでした。
イーストウッドたちは、「父親たちの星条旗」という映画を制作するだけではなく、日本人から見た硫黄島の戦いも描かないと、このテーマは完結しないと決意し、急遽映画は2本制作することにしました。

すなわち、1本目の「父親たちの星条旗」では、アメリカ政府が犯した愚かな過ちを軸に、それに翻弄される「硫黄島」のアメリカ兵を描きます。2本目の「硫黄島からの手紙」では、アメリカ人と同じように心のある日本人の目を通した「硫黄島」を描くのです。この2作品は対比構造になることなく、それぞれのテーマを貫いた形で制作され、別々に興行されるという仕組みです。

この頃の映画関係者は、こう思いました。「硫黄島からの手紙」は「父親たちの星条旗」のおまけみたいなもので、DVDの特典映像に付く作品だと。

メインスタッフは、じっくりとストーリーを練り込みました。よくあるステロタイプな日本を描かない、そして基本的に事実をベースにした戦争映画を描こう。さらにアメリカ人観客に媚びることのない正しい映画にしようと。
おそらくこの作業は大変だったに違いありません。日本人の心にまで影響する武士道や当時の日本兵の心情にまで肉薄するのは、現代の日本人であっても非常に難しい作業です。しかし、ポール・ハギスは、この面倒な作業をひとつひとつこなしていきます。物語のベースとなったのは、栗林忠道中将の手紙を集めた『玉砕総指揮官の絵手紙』です。日本語の台詞が必要となるので、アイリス山下という脚本家がチームに加わり、日本軍から見た「硫黄島の戦い」がだんだんと浮き彫りになってきました。

「父親たちの星条旗」の準備の合間に「硫黄島からの手紙」の脚本が完成します。そこからキャスティングが動き出しました。この映画の中心は、西郷と清水という若い兵隊です。この名もなき2人の兵隊からみた戦争を描くというコンセプトでした。幅広いオーディションが行われ、おおくの日本人俳優が参加しました。その中でキャスティングチームの目を引いたのが二宮和也と加瀬亮という若手俳優でした。当時はこの二人がどの役になるのか決まっていなかったそうです。この突出した才能を選び、プロジェクトは動き出していきました。二人の上官であり、物語のベースラインを引っ張っていく栗林中将役には、既にハリウッドで十分な実績を積んでいて英語力もある渡辺謙がキャスティングされました。そのほかのキャストも全てオーディションが行われました。

この頃までは、「硫黄島からの手紙」は日本人が監督する予定でした。イーストウッドやスピルバーグはプロデューサーにまわり、ほぼ日本人スタッフとキャストで日本映画として制作するというはずでした。しかし、日本サイドのスタッフがうまく機能しなかったこと、そしてイーストウッドの使命感から、この作品もイーストウッドが監督することになりました。この決定により、プロダクションはアメリカ側に移りロサンゼルス近郊で撮影することになったのです。

「父親たちの星条旗」撮影後、すぐに「硫黄島からの手紙」の撮影が始まりました。2006年初旬、キャストはロサンゼルス入りしました。そしてバーバンクにあるスタジオで準備に入りました。休みの日には、渡辺謙のLAにある自宅にキャストが集まり、勉強会が開かれました。そうして日本人キャストは結束を強めていったようです。二宮和也は、英語が得意ではなかったものの、一人で現地に乗り込み努力をしました。加瀬亮は、アメリカ暮らしが長かったので語学には苦労しませんでした。この二人、結局西郷役を二宮が、清水役を加瀬が演じることになり、二人の息はとてもあっていました。

いよいよ撮影が開始されました。場所はLAから車で1時間ほど離れたところにあるバーストゥという小さな町です。ここは、陸路でLAからラスベガスに向かうと必ず通過する町です。町にはメキシカンがおおく住み、チェーン店のレストランとモーテルしかない小さな町です。ここで1ヶ月以上撮影が行われました。スタッフもキャストもチープなモーテル住まいで、美味しいとは言えない食事をしながら過ごしたようです。

撮影は平日のみなので、休日にはLAに戻って日本食を食べたりしながら日本人キャストは頑張りました。さらに、アメリカ人サイドが作り上げた脚本は、良くできていたものの若干おかしな部分があり、それらを渡辺謙はじめ日本人キャストが監督に進言し直すと言ったエピソードもおおくありました。英語が得意な渡辺謙が、一生懸命説明するので栗林中将役の出番が増えてしまったというおまけもつきましたが...。

撮影終了後、イーストウッドは直ぐに「父親たちの星条旗」のポストプロダクション作業に入りました。この時点で世界公開が決まっているのは「父親たちの星条旗」だけでした。「硫黄島からの手紙」は、日本でのみしか公開が決定していませんでした。よって、ワーナーブラザースは、世界的に興行の見込める「父親たちの星条旗」の完成を望んだのです。

合成は、デジタル・ドメインが中心となって行われました。硫黄島での撮影が許されたのはオープニングシーンくらいです。ほかのシーンは、別の場所で撮影されたため擂り鉢山などはCGIで描かれています。この合成はとてもうまくいっていて、見た誰もが合成だとは思わなかったでしょう。そのほか、爆破シーンやアメリカ軍の上陸シーンなどおおくがCGで作られています。これら合成シーンには制作時間がかかり、「父親たちの星条旗」の完成は公開直前となってしまいました。

そして、「父親たちの星条旗」が完成すると直ぐにイーストウッドは「硫黄島からの手紙」のポストプロダクションに没頭しました。日本での公開しか決まっていなかったものの、撮影時に確かな手応えを感じていたのではないでしょうか。こちらの合成もかなりのショットがありましたが、「父親たちの星条旗」と同じシーンでは映像を使い回しています。これにより効率化を図っています。

「父親たちの星条旗」は、2006年の夏、世界中で封切られました。有名なキャストを排除していること、「硫黄島からの手紙」のポストプロダクション作業で十分な宣伝ができなかったことで、興行的には大成功とまではいかない結果でした。しかし、評価は非常に高く、特にアメリカ国内では戦争時の政府のあり方について様々な議論が行われました。これはイーストウッドはじめスタッフが狙った結果でした。そして、この議論で「硫黄島からの手紙」に興味を抱く人が増えたのです。
結果、「硫黄島からの手紙」は、日本だけではなくアメリカでの上映が決まりました。

12月公開と決まっていた日本では、心配事がありました。公開が近いにもかかわらず完成した映画が届かないのです。1年で映画を2本撮影し、完成させるのは大変な作業です。いくらトップクリエイターが終結していてもそう簡単に2本を完成させることはできなかったのです。それでも、公開直前にフィルムは日本に到着しました。それを見た関係者はとても驚かされました。
「硫黄島からの手紙」は、おまけ作品どころか「父親たちの星条旗」をも超えた素晴らしい作品に仕上がっていたのです。

これほどまでに素晴らしい作品を届けられたワーナー・ブラザース日本支社は、必死の宣伝を展開します。イーストウッドの来日も決まり、武道館でのジャパン・プレミアが決まりました。
ハリウッド映画の本当のプレミアが日本で行われたのは、この作品が始めてではないでしょうか。この時点でアメリカではまだ映画を見た関係者以外の人はいませんでした。本当の意味で初お披露目だったのです。当日はあいにくの雨でした。雨が降りしきる中、イーストウッドが登場しレッドカーペットを歩きました。私もラッキーなことにここで監督と会う機会がありました。とても穏やかなイーストウッドが、あれほどに熱い映画を作るとはどうしてもイメージできませんでしたが、力強い意志を感じました。

プレミアは大成功し、以降マスメディアは映画を絶賛し始めます。そして、アメリカのメディアもこの映画の素晴らしさを伝え始めるのでした。

皆さんご存じの通り、「硫黄島からの手紙」は日本で予想を大きく超える大ヒットを記録したのです。

そして、ナショナル・ボード・オブ・レビューとロサンゼルス映画批評家賞で最優秀賞、アメリカ映画協会で特別賞、ゴールデングローブ賞で最優秀外国語映画賞を受賞します。さらにアカデミー賞でも最優秀作品賞にノミネートされてしまいました。
「父親たちの星条旗」のおまけ企画と思われていた本作品が、「父親たちの星条旗」よりも遥かにおおくの評価を受けてしまいました。

日本人が見つめたくない辛い過去をアメリカ人が見事に映画化し、その作品が海外で高い評価を得るという結果をいったい誰が予想したでしょうか。おそらくイーストウッドすら予想していなかったでしょう。この結果は、スタッフとキャストの熱意、そして様々な不確定要因が結びついて起こった現象です。

ひとつだけ言えることは、この硫黄島2部作で描かれたことは絵空事ではなく、過去に実際に起こったできごとだということです。この事実を現在のアメリカと日本に歪曲することなく伝えたイーストウッドの偉業は歴史がさらに評価するでしょう。

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ミッション・インポッシブル3 [アメリカ映画(00s)]

Mission : Impossible III (2006)

ご存知トム・クルーズ主演のアクション映画第3弾。

テレビ版「ミッション・インポッシブル」を映画化するという企画でスタートしたこのシリーズは、パート1(1996)でブライアン・デ・パルマ、パート2(2000)では、ジョン・ウーを監督に向かえ、それぞれ世界中で大ヒットしました。プロデューサーであるトム・クルーズとポーラ・ワグナーは、3作目になる本作品の監督候補を探すことになります。

プロデューサー・チームは、まず「セブン」「ファイトクラブ」などを監督した奇才、デビッド・フィンチャーにアプローチします。フィンチャーはPV出身の監督で、業界内におおくのファンを持ち、映像表現の才能を持った逸材です。フィンチャーは、このオファーを受け、プロット開発に入ります。しかし、彼の映像表現とストーリー構成とプロデューサー側の意見が合致せず、結局スケジュールの問題も絡み、フィンチャーはこのプロジェクトから離脱してしまいました。

ある日、トム・クルーズが自宅でテレビドラマのビデオを見る機会がありました。タイトルは「エイリアス」。このドラマはアメリカでは人気があり、その製作の中心にいたのが、J.J.エイブラハムスだったのです。エイブラハムスは、ニューヨークの大学生を描いた「フェリシティの青春」を監督し、この業界で話題となった人物です。彼は監督業だけでなくプロデューサーや脚本家としても活躍し、「エイリアス」では、さらに注目されていました。その後、製作した「LOST」は大ヒットし、一躍時の人となる直前でした。クルーズは、エイブラハムスとコンタクトを取ります。それまでテレビドラマしか手がけた事のないエイブラハムスは、クルーズから「ミッション・インポッシブル」の第3作監督を依頼されます。

エイブラハムスは、すぐにこのオファーを受け、脚本開発に入ります。ストーリーと構成の巧みさ、そして登場人物のキャラクターを浮き彫りにするエイブラハムスの才能は、「ミッション・インポッシブル」のどう影響を与えるのでしょう。エイブラハムスがこのプロジェクトに参加した事を知ると誰もが心躍らされたのです。もはやトム・クルーズの映画というよりエイブラハムスがどんな映画を作ってくれるのかの方が話題の中心となっていきました。

エイブラハムスは、主人公イーサン・ハントの設定をリアリティを持った人物に戻す事からはじめました。そしてストーリーは、リアリティのないアクション映画ではなく、人物に焦点を当てたリアリティのあるドラマにする事を決めます。恐ろしいところは恐ろしく、スリリングで説得力のある映画を作るため、エイブラハムスは、「エイリアス」で一緒に仕事をした共同脚本家アレックス・カーツマン、ロベルトオーチーをプロジェクトに参加させ、何度も会議を重ねました。

これにより完成した台本は、前2作よりも人物に焦点が当てられる映画となりました。イーサン・ハントは、恋人と結婚間際で、最前線から身を引いています。そして、物語はハントが育てた一人のエージェントの救出からはじまるのです。そして、この事件には大きな陰謀が隠されていました。

今回は、J.J.エイブラハムスが監督になったことの他にもうひとつ、話題がありました。適役にフィリップ・シーモア・ホフマンがキャスティングされたことです。コーエン兄弟やポール・トーマス・アンダーソン監督の作品で重要な脇役を務めた彼が悪役を演じます。ホフマンは、この作品の直前に「カポーティ」という作品に出演していました。

この作品には、クルーズから何人かの俳優に話が行きました。キャリー・アン・モス、ケネス・ブラナー、スカーレット・ヨハンソン、リンジー・ローハンなどが参加する可能性がありましたが、スケジュールの都合などで参加しませんでした。

トム・クルーズは、「宇宙戦争」の撮影が終わると、役作り始めスタントマンを使うシーンでも積極的に自分で撮影に参加しました。トラックの下を通過するシーンやビルから飛び降りるシーンは、通常スタントマンが演じ顔をCGで取り変えるのですが、今回はそんな作業は必要なかったのです。関係者がヒヤヒヤする中、クルーズは次々とスタントをこなしていくのでした。撮影は世界各国で繰り広げられ、上海で終了しました。テレビドラマの過酷な撮影を何度となく経験しているエイブラハムスは、スケジュールよりも早くクランクアップし、予算も余るほど効率よくプロダクションを終えます。

作品が完成すると、スタジオ関係者の中では、早くもシリーズ最高傑作だという噂が広がりました。試写会のアンケートでも過去にないハイスコアを記録、映画としては一流の出来映えであることは間違いありませんでした。アカデミー賞ではホフマンが「カポーティ」で最優秀男優賞を受賞し、誰もがホフマンの悪役姿を楽しみにするようになります。パラマウントは本気でプロモーション活動を開始します。公開前のスーパーボウルでは、10本ものテレビスポットが流され、アメリカで人気のWWEプロレスでも派手な宣伝が行われました。

映画は2006年5月6日に全米で公開されました。公開時は興行収入ランキングで好調な成績を収め2006年度ではトップ5という素晴らしい成績を残します。しかし、その後集客が延びず、結局シリーズ中では一番低い成績となります。

これにはいくつかの要因が考えられます。
まず、キャンペーン中のトム・クルーズの奇行です。結婚直前のハイな時期でもあったと思いますが、アメリカではトーク番組で叫んだり、突然興奮したりして視聴者はクルーズに何度も唖然とさせられました。マスコミにはとても優しいのですが、インタビューが終わると必ずクルーズが入信している宗教についての講義を聴かされたりして誰もが困惑してしまいました。このクルーズの不思議な行動が宣伝に影響しているのは間違いありません。
そして、映画自体は、前2作にくらべ、クオリティは上がっているのですが、何も考えないで派手なアクションを見たいと期待していたファンを裏切る事になってしまいました。映画通や業界受けは高いのですが、一般大衆には受け入れられなかったのです。特にこの問題は日本で顕著に現れてしまいます。日本の映画ファンは、高い評価をしましたが、年に数本しか映画を見ないアクション映画ファンからは不評でした。

映画は、どんなに良く出来ていてもヒットしないのです。その時の時流や裏環境がおおきく影響します。「ミッション・インポッシブル3」は、まさにこの典型となってしまいました。

映画公開後、トム・クルーズは、長年続いたパラマウント映画との契約を打ち切られてしまいました。スタジオはトム・クルーズがこの映画が不振に終わった原因だと思っているようです。

J.J.エイブラハムスは、テレビドラマ「LOST」第3シーズンが相変わらず好調です。そして今後も監督や脚本のオファーが殺到しているようです。監督としては、既に第2次大戦中沈没した軍艦U.S.S.インディアナポリスの謎を追う映画(題名未定)と「スタートレック11」が決まっています。

さて、今後、クルーズ、エイブラハムス、そして「ミッション・インポッシブル」シリーズはどうなっていくのでしょうか。今後の動向が楽しみです。

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父親たちの星条旗 [アメリカ映画(00s)]


Flags of Our Fathers

父親たちの星条旗

アカデミー賞受賞のクリント・イーストウッドが監督が描く硫黄島の戦いの裏話。

この企画が動いていることを知ったとき、なんて豪華なスタッフなんだろうと思いました。「ミリオンダラー・ベイビー」「許されざる者」でアカデミー賞を受賞し、さらに素晴らしい俳優であるイーストウッドが、監督をし、「プライベート・ライアン」「シンドラーのリスト」など社会派映画でも実力を発揮するスティーブン・スピルバーグがプロデュース、さらに脚本は「クラッシュ」のポール・ハギス。まさにドリーム・チームが映画を一緒に製作するのです。さぞかし大型エンターテイメントになるのではないかと期待しました。

しかし、企画の内容を聞くと、驚きと「そうきたか!」という安心というか納得するストーリーでした。それは、「硫黄島」の戦いを正面から描くのではなく、その事件の裏側にスポットを当てた映画になるというものでした。あの有名な星条旗を立てる写真は、実は作り物だったという真実を暴くという思い切った企画に3人らしさがでています。

第2次世界大戦の末期、連合国軍はジリジリと日本本土に迫っていました。本土の手前にある「硫黄島」は、太平洋戦争における日本攻略への必要なステップだと考え、硫黄島を攻め落とす作戦に出ます。これを受け、日本も硫黄島に多数の兵士を投入し徹底抗戦します。簡単に陥落すると思われた硫黄島は、日本軍の必死の抵抗にあい、約1ヶ月ものあいだ、激しい戦いが繰り広げられました。2万2000人の日本軍はぼぼ全滅してこの戦いは終わります。

この「硫黄島」の決戦は、実際はとても酷いものでした。日本軍は未熟な兵士を硫黄島に送りほぼ見殺しにしてしまいます。国内では「硫黄島」での戦いはプロパガンダとして使われ、国民の士気高揚に利用されます。硫黄島の戦いで生き残った日本人は、当時のことについておおくを語ろうとはしません。

連合国軍サイドも大きな被害を被りました。おおくの兵士が命を落としていったのです。そして国民は戦争の意味について考え出しました。そして戦争資金も足りなくなっていきます。そこで、アメリカは戦費を調達するために「硫黄島」を利用することになるのでした。

アメリカも日本も、おおくの犠牲を出し、さらに戦争に資金を注入していったのです。そして、日本は言論統制を行い、アメリカはマスコミを利用して資金を集めてというこの恐ろしい事実があることを現代の我々はあまり知りません。

イーストウッドは、アメリカの犯したこの愚かな過ちを映画で訴えようとしたのです。もう、皆さんわかったと思いますが、今、中東で行われているイラク戦争と「硫黄島」はとても酷似しています。イーストウッドは、今も尚繰り返し行われている国によるプロパガンダとそれに流される国民を風刺しているのです。

原作であるベストセラー「硫黄島の星条旗」は、スティーブン・スピルバーグ率いるドリームワークスが取得していました。本を読んだイーストウッドは、スピルバーグに制作の打診をします。するとスピルバーグは自分がプロデューサーになると言います。そして、そこにポール・ハギスが加わるのです。このかなりリスクのある企画を3人のカリスマが制作することで、企画にGOサインがでました。

キャストは、スタッフに比べ、かなり地味でした。これは、「硫黄島」のリアリティを出すためだと思われます。硫黄島は、今でも立ち入りは厳しく制限されていますが、撮影前にイーストウッドとスタッフは、東京都の計らいで島に行きました。そこで、いくつかのショットが撮影されました。実際の撮影のおおくは、硫黄島に似ているアイスランドのレイキャネスという島で行われています。

「父親たちの星条旗」を企画している途中、制作チームは、もうひとつの企画を思いつきます。日々報道されるイラク戦争は、いつもアメリカ人が何人戦死したのか、そしていつ撤退するのかといったアメリカサイドのことしか伝えません。実はイラクでは沢山の罪なき市民が死んでいっているのです。彼らには家族もあるでしょう。硫黄島の戦いで敵として描かれている日本人にも同じことが言えます。戦争を描く以上、敵も味方もありません。アメリカサイドを描くなら日本サイドも描こう。そう考えたイーストウッドは日本側のストーリーを探し出しました。これは、後に「硫黄島からの手紙」という作品になります。

話を戻しましょう。「父親たちの星条旗」は、完成しアメリカはじめ世界で公開されました。興行的に大成功というまでには至りませんでしたが、話題となりロングラン上映が行われました。きっと保守的なアメリカ人は、こういう映画を好まないでしょう。しかし、ニューヨークやロサンゼルスなどの進歩的な国民は、この作品を大絶賛しています。きっとアカデミー賞に絡む作品になるでしょう。

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カーズ [アメリカ映画(00s)]


CARS (2006)

ピクサーが制作した、車を擬人化して描く3DCGアニメです。

1999年「トイ・ストーリー2」が完成し、次回作をどんなアニメにしようか悩んでいたジョン・ラセター監督は、スタッフを集めます。
そこで、共同監督のジョー・ランフト達と次回作に向けたブレインストーミングを行いました。ラセターは、大好きな車をテーマにした映画ができないか提案しました。ただ、ストーリーはまったく見えていませんでした。

リサーチを進めるうちに、スタッフは、マイケル・ウォリスと出会います。彼は、「ルート66」に関する書籍を執筆している作家です。ウィリスがルート66についての話をしたところ、ラセターは心を動かされました。そして、映画の舞台をルート66にしようと考えました。

まずは、ウィリスをガイドにして、スタッフ皆で、ルート66を実際に走ってみることになったのです。

ルート66という道路をご存じでしょうか?
この道は、1926年に作られた国道で、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結んでいました。交通の中心地であるシカゴから西海岸の主要都市であるロサンゼルスを結ぶ道ということで、当時は、この道はアメリカの主要道という位置づけとなり、交通量は増え続けました。しかし、1985年にインターステート・ハイウェイが整備され、主役は高速道路に移り、ルート66は廃線となってしまいます。
新しくできた高速道路は、主要都市を直線で結びます。よって、ルート66にあったおおくの街が寂れていきました。そして住人は、商売ができなくなり街を去っていったのです。

ジョン・スタインベックは、著書「怒りの葡萄」のなかで、ルート66を「マザー・ロード」と呼び、他にも「メイン・ストリート・オブ・アメリカ」などと呼ばれていたルート66。ジャズでも歌われ、ポップカルチャーにもおおく登場したルート66。皆に愛されたこの道は、85年以降、忘れ去られていきました。

しかし、1990年、アリゾナ州のルート66沿いに住む住人達は、旧道を歴史的街道にしようと運動を起こします。そしてまずはアリゾナ州が、旧道をHistoric Route 66とし、他州も追随することで、現在は観光道路として蘇っています。

ラセターは、シナハン(シナリオ・ハンティング)で、実際にルート66を旅することで作品のイメージを掴むことができました。主人公は、レーシングカーです。常に前を向き人生をレースのように速く生きています。しかし、あるアクシデントが起こり、ルート66に迷い込むのです。そこで、レーシングカーは、自分とは全く違う価値観の人々とふれあっていきます。スタッフが、シナハンで知り合ったルート66に住む住人達は、作品に反映されていきます。

ラセターは、「モンスターズ・インク」「ファインディング・ニモ」などのプロデューサーをこなしながら、この映画のストーリーを作っていきました。そしてタイトルを「カーズ(車達)」としました。

私も、先日「ルート66」を車で走ってきました。かつての主要道であったルート66は、現在は高速道路の隣を走っています。しかし、そこを走る車はほとんどありませんでした。道には「ROUTE 66」とマークが残っていますが、ほとんどの旅行者は、そんな道を見向きもせず、隣の高速道路を飛ばして走り去っていきます。そんな旧道をのんびり走ると、様々なものに出会い、住人と触れ合うことができるのです。40年代から60年代の古き良きアメリカの景色を残した街が現れるのです。そこには、昔ながらの人情深い人々が今も暮らしています。ダイナーでは、パンケーキとコーヒーを提供しています。ガソリンスタンドでは、街の人々が集まって何やら盛り上がっているのです。私は、その時代を生きていませんが、なんだかタイムスリップしてしまったような錯覚をうけました。確かに、東京で時間に終われながら生きていると、こういう街に迷い込み、人生とは何なのかを考えさせられました。
実は、映画の主人公マックイーンは我々自身なのではないでしょうか。きっとルート66を走ると誰もがこの映画でラセターが何を訴えたかったのかがわかると思います。

話を戻しましょう。ストーリーが完成すると、ピクサーのスタッフはキャラクターデザインを行い、コンピュータで作画を始めました。これには4年ほどかかりました。スタッフは映像のクオリティを上げるために新しいソフトを開発し、車のボディの反射などレンダリングも行っていったのです。ピクサーは映画制作において技術を第一にしない会社です。まずは、ストーリーとキャラクター設定を大事にします。そして、それに見合う美しいコンピュータグラフィックスを制作していくのです。

私は、2004年にピクサーを訪れた際、この映画を制作していました。スタッフは少しでも映画を良くしようとがんばっていました。音響チームは世界中のサーキットを回り、様々な音を録音していました。
このような地味な作業がやっと終了したのは、2006年の3月です。そして6月に全米公開されました。

近年、ピクサー以外にもほとんどの映画スタジオが、CGアニメに参戦してきました。これにより、もはやCGアニメというだけでは映画はヒットしなくなっています。そして、今回はピクサーとディズニーが合併するというニュースもあり、世界中が新生ピクサーの作品の動向を気にしていた時期でした。

映画は、大ヒットします。そして続いて公開されたアメリカ以外の地域でもヒットしていきました。
日本では、ラセターと交友関係のあるスタジオ・ジブリの新作と公開が重なってしまい、結果客を奪われたかたちになってしまったのは残念でした。しかし、映画の完成度は、ジブリよりも遙かに優れていました。

日本人には、車が擬人化するという違和感やストーリーがわかりにくいという指摘がありましたが、これは地域差なので仕方がないでしょう。
私は、車が好きで、ルート66を実際に走ってきたので、この映画をとても気に入っています。

この映画をあらためて観ると、非常に私的な映画に感じました。これは、ラスター監督自身のお話なのではないか、と強く思わされました。彼は、ピクサーを起こし、成功しました。しかし、その裏では多忙を極め、自分らしさが失われていたのではないでしょうか。たまたま新企画を模索する中で、ルート66の住人達に出会い、人生で何が一番大事なのかを悟ったのでしょう。映画「カーズ」の中には、その気持ちが強くあらわれているように思います。

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ラセターさん、ありがとう


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エリザベスタウン [アメリカ映画(00s)]

ELIZABETHTOWN (2005)

キャメロン・クロウ監督らしい、心温まる音楽映画の秀作です。

キャメロン・クロウは、子供の頃から音楽に興味を持ち、ロックやポップスに関して、膨大な知識を有していました。この知識は早くから注目され、15歳にして「ローリング・ストーン」誌のライターとして採用されます。彼は、高校生の頃から、記者としておおくのアーティストたちと友好関係にありました。この話は、彼の映画「あの頃、ペニー・レインと」に描かれています。この映画はほぼ彼の自伝で映画はアカデミー賞を受賞しました。

音楽ライターとして仕事を得ていたクロウは、映画の脚本を書きます。これは自分の世代が恋をして馬鹿騒ぎをするという青春映画でした。脚本家としても彼の才能は花開きます。直ぐにハリウッドに脚本がピックアップされてしまうのです。そして完成した映画が「リッチモンド・ハイ」です。映画はアメリカのティーン・エイジャーの間でヒットします。そして、映画監督をしてみないかという話が舞い込んでくるのです。

若くして映画を監督することになるキャメロン・クロウは、子供の頃から好きで覚えた知識が次々と役立っていきます。そして音楽が好きな気持ちは衰えることなく、さらにどん欲に音楽に熱中していくのです。

初監督の映画は「セイ・エニシング」(1989)。もちろん、脚本も担当しています。音楽が効いた青春映画で、アメリカでは連日ティーンエイジャーたちで満員になりました。そしてこの映画からはジョン・キューザックが出てきます。キューザックは、この映画をステップに今の地位を得たと言っても過言ではないでしょう。

1992年の「シングルス」は、複数の若者を音楽を繋いで見事に描いていきます。この映画からはマッド・ディロンやブリジット・フォンダといった若手俳優が頭角をあらわしてきました。シングルスは、サウンドトラックも話題になります。映画を見た人は、サントラを購入したくなるくらい名曲が散りばめられています。そしてそれら音楽は、メジャーなヒット曲ではなく、マイナーながら良い曲を揃えていたのでした。この選曲はクロウならではのセンスです。

それから4年後、クロウは、メジャースタジオから監督のオファーを受けます。主演がトム・クルーズの野球を巡る話です。クロウは、おおくの雇われ監督のように、ただ企画を映像化することなく自身で脚本を執筆し、作品にあう音楽を選曲していきます。そして、この映画「ザ・エージェント」は世界的に大ヒットするのです。

メジャー・スタジオで評価された監督は、大監督としていきなり地位が向上します。次は好きな映画を撮って良いのです。クロウは、ソニーピクチャーズで自伝的映画を制作します。高校生が、ローリング・ストーン誌の記者になって、有名ロックバンドの同行をする話「あの頃、ペニー・レインと」です。クロウは、主人公の成功談を描くことはせず、高校生ならではの淡い恋と失恋を見事に描きました。そしてアカデミー賞で最優秀脚本賞を受賞しました。しかし、映画は興行的に惨敗します。これにクロウは相当堪えたようでしばらく仕事ができないくらい落ち込んでしまいました。

そこに手を差し伸べたのは、「ザ・エージェント」でクロウの才能を知ったトム・クルーズでした。トム・クルーズは自分の企画の監督にクロウを抜擢します。そして、作られたのが「バニラ・スカイ」です。映画はリメイク映画なので、ストーリーなどは元の映画とほぼ同じですが、オリジナルと大きく異なるのは選曲です。ここでもクロウは自分のセンスを映画に取り入れ、成功を収めています。映画は世界的にヒットしましたが、評価はいまひとつでした。

こうして、評価が高いのに興行的にうまくいかなかった「あの頃、ペニー・レインと」。興行的にヒットしたのに評価が低かった「バニラ・スカイ」の2本を経験したクロウは、自分のアイデンティティーを探ります。そして見いだした答えは、やはり自分の好きな音楽を中心に映画を作ろうというものでした。

次回作は「シングルス」や「あの頃、ペニー・レインと」みたいな映画にしようと決意したのです。おおくのスタジオが危機感を持ちましたが、ここでクロウを支援したのは、おおくのミュージシャンととむ・クルーズでした。そして、世界中のロック、ポップス好きのファンや雑誌、クロウの映画に魅せられた映画ファンもこれを後押ししたのです。

クロウは、ケンタッキー州エリザベスタウンを舞台にした、ひとりの挫折した男の物語を書き上げます。この映画「エリザベスタウン」の主人公ドリューは、オーランド・ブルームをイメージして書いたそうです。そして、その彼に手書きの地図を渡し、アイデンティティーを探す妹役クレアにキルスティン・ダンスト想定で話を作りました。もちろん、映画全編にはシーンに適したロックが配されていました。そして実は「エリザベスタウン」もクロウの自伝的な要素が盛りこまれています。大失敗という挫折から立ち直る人生の旅は、彼の監督人生とオーバーラップしています。

映画にグリーンライトが灯り、キャスティングが始まると、オーランド・ブルームとスケジュールが合わないことがわかりました。ブルームは「キングラム・オブ・ヘブン」の撮影に入ってしまうためどうしても撮影に参加できなかったのです。そこで、おおくの若い役者のオーディションが行われました。この頃、妹役クレアは、ダンストに決まり、妹ではなくドリューの人生の旅の大きな旗振り役に変わっていました。何度か、別の俳優で決まりかけたのですが、クロウは、ブルームを諦めきれず、撮影スケジュールを白紙に戻します。そして、「キングラム・オブ・ヘブン」の撮影が終わるまで待つことにしました。ドリューの母親役ホリーにはブリジット・フォンダの実の母親であるジェーン・フォンダが決まっていましたが、今度はフォンダのスケジュールが合わなくなり。こちらは降板、代わりにスーザン・サランドンがキャスティングされました。

映画は、小規模で行われたようです。ジョン・トールの撮影は素晴らしく、ケンタッキー州エリザベスタウンを見事に描いています。そして、自然を利用した演出でクロウらしい20代の切ない恋を見事に浮き彫りにしていきます。撮影後、編集でクロウがイメージした音楽をあてはめていったところ、二人の演技があまりにぴったりとあっているのに気付き、大幅に台詞をカットし、音楽に乗せた点描が増えたそうです。よって、映画を見ているとあまりに心地よくミュージカルを見ている錯覚に陥るかもしれません。

ティーンが大人になりかけ恋愛経験が増えてくると、この映画にあるような「ちょっと大人の恋」をすることがあるかもしれません。クロウは自身の脚本でこのテーマを一貫して描く続けています。そしてそこに既成楽曲をうまく選曲するのです。この手法は彼の独壇場でしょう。誰もまねをすることができない演出方法です。

映画は、大ヒットすることはありませんでした。でも「あの頃、ペニー・レインと」のような大失敗をすることはありませんでした。サウンドトラックは世界中でベストセラーになりました。

クロウは、ハートのメンバー、ナンシー・ウイルソンと結婚しており、ウィルソンは、クロウの映画の音楽と選曲にも欠かせないパートナーとなっています。彼は、少年の頃からロックに憧れ続け、ロック歌手と結婚し、音楽映画を作り続けています。大人になり、「人生は山あり谷あり」ですが、子供の頃の意志を忘れることなく、音楽を愛し楽しんでいるようです。

キャメロン・クロウは、私の大好きな監督の一人です。今後の大ヒットはしないけれども心に響く音楽映画を心待ちにしているファンのひとりなのです。

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