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ボーン・スプレマシー [アメリカ映画(00s)]

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The Bourne Supremacy

作家ロバート・ラドラムが書いた「ジェイソン・ボーン」3部作の第2作である「殺戮のオデッセイ(The Bourne Supremacy)」(1986)をマット・デイモン主演で映像化したヒット作の裏側を紹介します。

前作「ボーン・アイデンティティー」は、紆余曲折がありながら映画は世界的にヒットし、ユニバーサル・スタジオは、続編の制作を期待しました。
監督のダグ・リーマンと脚本家のトニー・ギルロイは、この提案を受け続編のプロット作りを始めます。リーマンは、前作のプロット作りの時、ギルロイに原作を読ませませんでした。リーマンが読んで面白かった部分を口頭で伝え、その部分を膨らませて映画「ボーン・アイデンティティー」の脚本は完成していたのです。よって、ストーリーは原作から離れてしまっていました。こうなると、ラドラムが書いた続編「殺戮のオデッセイ(The Bourne Supremacy)」のストーリーは、映画の続編として成立しません。そこで、リーマンとギルロイは、題名こそ原作と同じ「ボーン・スプレマシー」としながら、映画にあわせた続編としてほぼオリジナルでストーリーを作り上げることになってしまいました。
よって、この「ボーン・スプレマシー」の原作ファンが映画を見ると、かなりストーリーが違って驚くでしょう。しかし、映画の脚本は映像としてはとても面白い完成度でした。

さて、前回のお話しの続きです。
ボーン・アイデンティティー」の監督だったリーマンは、スタジオとのつきあいが嫌になり、今回は監督を引き受けませんでした。このあたりの裏事情は関係者が口を開かないので真意がわからないのですが、本人が自ら退いたのか、プロデューサーが監督を退けたのかはわかりません。結局、リーマンはエクゼクティブ・プロデューサーという都合の良いポジションを得ます。直接撮影現場を指揮しませんが、作品には口を出せ、映画がヒットすれば成功報酬が得られるのです。

結局監督は、ポール・グリーングラスというあまり知られていないイギリス人に決まりました。実はグリーングラスは、ドキュメンタリー・タッチの映画を撮らせると、とても素晴らしい才能を発揮する監督で、本人はこのチャンスをうまく活かそうと監督を快諾します。

そして、いよいよプロジェクトが動きだしました。キャストは、前作同様ジェイソン・ボーンにマット・デイモン、彼女のマリー役にフランカ・ポテンテ、CIAのジェイソンのトップアボットにブライアン・コックスが演じています。スタッフは、前作同様、制作会社はマーシャル・ケネディ・プロダクションです。フランク・マーシャルは、プロデューサーも務めています。撮影監督も同じくオリバー・ウッド、音楽もジョン・パウエルです。
要は、監督以外はほぼ同じメンバーで続編が作られることになったのでした。

このようなことは、時々起こります。一番わかりやすい例は「スターウォーズ」です。監督のジョージ・ルーカスは、初めの「スターウォーズ」(「スターウォーズ エピソード4」)で、監督をしました。当時SF映画というと陳腐な子供映画だと思われていたため、20世紀フォックスから呆れられ、資金援助打ち切りの危機に遭いながら苦労して完成させたのが「スターウォーズ」です。しかし業界の予想に反し映画は大ヒットします。そこですぐにフォックスは続編の製作をルーカスに依頼しました。しかし精神的に参っていたルーカスは監督を引き受けることなくエクゼクティブ・プロデューサーという肩書きを作りそこに収まったのでした。結局続編「スターウォーズ 帝国の逆襲」(「スターウォーズ エピソード5」)の監督はアーヴィン・カーシュナーが引き受けました。

ダグ・リーマンは現場の軋轢から解放され、プロデューサーという俯瞰の目で作品をとらえることが出来ました。現場は優秀なライン・プロデューサーが動き素晴らしい映像が撮影されていきました。

映画は、順調に撮影が終了し2004年7月23日に全米で公開されました。公開されるとたちまちボックスオフィスのトップに躍り出て、以後7週間もトップ10入りします。そして世界で2億7000万ドル以上の売り上げを記録してしまいました。これは前作の2倍以上の売り上げです。

スタジオは、早速さらなる続編である第3作「ボーン・アルティメイタム」の制作を要望するのでした。

<「ジェイソン・ボーン」3部作を購入>
ボーン・アイデンティティー (ユニバーサル・ザ・ベスト第8弾)

ボーン・スプレマシー

ボーン・アルティメイタム



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ボーン・アイデンティティー [アメリカ映画(00s)]

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The Bourne Identity (2002)

作家ロバート・ラドラムが書いた「ジェイソン・ボーン」3部作の第1作である「暗殺者(原題:The Bourne Identity)」(1980)をマット・デイモン主演で映像化したヒット作の裏側を紹介します。

劇場を運営していたロバート・ラドラムは、作家に転身する決意をし、1970年に「スカーラッチ家の遺産(原題:The Scaelatti Inheritance)」でデビューを果たします。それまで順風満帆だった人生を捨て去り作家になろうとしたラドラムは、どのような心境だったのでしょう。家族は路頭に迷うのではないかと不安になりましたが、もともと俳優をしたり劇場を営んだりしてお客さんを楽しませることが得意だった彼は、次々とヒット作を書き上げていきました。彼の書いた小説は現在までに世界で2億冊以上が売れています。

ラドラムの作品の中に「ジェイソン・ボーン」3部作というものがあります。記憶を失った男「ジェイソン・ボーン」の戦いを描くスパイアクションです。1作目は「暗殺者(原題:The Bourne Identity)」(1980)、2作目は「殺戮のオデッセイ(The Bourne Supremacy)」(1986)、3作目は「最後の暗殺者(The Bourne Ultimatum)」(1989)。このシリーズは、世界中でおおくのファンに愛されています。ラドラム死後は、別の作家によりさらに2作のシリーズ続編が書かれています。

映画監督のダグ・リーマンは、「スウィンガーズ」(1996)監督後、高校生の頃から好きだったジェイソン・ボーン・シリーズの映画化に着手しました。映像化権を持っていたワーナーブラザースと交渉し、権利を確保した後、脚本家のトニー・ギルロイと一緒に2年を費やし脚本を完成させます。リーマンは、ギルロイに原作を読まないよう頼み、リーマンがストーリーを口頭で伝え、脚本を膨らませていきました。そしてユニバーサル・スタジオが資金を拠出し撮影が開始されることになりました。公開予定は2001年9月から2002年6月の間に設定されました。
しかし、リーマンとユニバーサルの間にはおおくの問題が発生し始めました。まず、スタジオの介入を好まないリーマンは、スタジオの要求を拒否し続けました。これによりスタジオと監督の間に溝ができてしまいました。映画の内容はオリジナリティに富んでおり野心的なものでしたが、スタジオ側は小規模なアクションシーンばかりで大作には見えなかったこと、撮影が世界中に展開し制作費がかかることについても不満で、互いの理解が一致しませんでした。そんなことが続き撮影が延期されたため、制作費は当初の5200万ドルから800万ドルも増え600万ドル(約60億円)になってしまいました。公開時期も延期され悪夢がさらに長引きました。撮影終了後のポストプロダクション中に原作者のラドラムが死去してしまうという不幸もありました。
キャスティングに関して、リーマンは、ラッセル・クロウやシルベスタ・スタローンなどを考えました。この映画はアクション・シーンが重要なので、アクション経験のある俳優を捜していたのです。特にブラット・ピットに関しては具体的な交渉に入りましたが「スパイ・ゲーム」の撮影と重なり、この話はなくなりました。結果は、アクション経験のないマット・デイモンで決着します。デイモンは、主人公ジェイソン・ボーンを演じるためアクションの訓練を続け、殆どの撮影は自身で演じています。

結局映画はなんとか完成し、2002年6月にユニバーサルピクチャーズにより全米公開されます。映画の困難な制作過程とは異なり、評判は大変良く興業は成功となりました。2億ドル以上の興業収入をあげ、世界中に「ジェイソン・ボーン」が知れ渡ったのです。

この「ボーン・アイデンティティー」の制作における出来事はハリウッドでも日本の映画界でもよく起こる現象です。資金を拠出している会社の担当者が作品の中身を理解せず口を出すことはよくあります。そして、作品を実際に作る監督とクリエイティブ面に関しぶつかり、問題が勃発するのです。おおくの作品は、ここで制作が中止されるか、完成してもつまらない映画になってしまうのです。
リーマンは、この困難に妥協することなく突き進みました。そして自分の作りたかった作品を作り出しています。
スタジオが思いこんでいた「派手なアクション」がなくても十分に面白い映画ができることを本作は証明しています。そして制作費が超過しても、それ以上の利益を上げることもできたのです。

評価も良くて、利益も上がった作品が世に出ると、スタジオは急に態度を変えます。「手のひら返し」を堂々とやってのけるのです。ユニバーサルは、直ぐに続編の映画化について検討をはじめます。

そして、続編にあたる「ボーン・スプレマシー」の制作が決定、脚本開発が始まりました。
スタジオと揉めたリーマンは、この次回作を引き続き監督するのでしょうか?この続きは、次回「ボーン・スプレマシー」の回でお伝えします。

<「ジェイソン・ボーン」3部作を購入>
ボーン・アイデンティティー (ユニバーサル・ザ・ベスト第8弾)

ボーン・スプレマシー

ボーン・アルティメイタム


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アイアン・マン [アメリカ映画(00s)]

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Iron Man (2008)

「アイアン・マン」とは、2008年5月に全米で公開され興行収入が1億ドルを突破、大ヒットとなったアメリカン・コミックの実写映画化作品です。

この映画を語る前に、原作であるコミック版「アイアン・マン」について記しておきます。原作は、スタン・リーが中心となり1963年に漫画がマーベル・コミック社から発売されました。主人公は「アビエイター」で映画化もされた実在の人物ハワード・ヒューズです。以降、人気を博し現在も連作が続いている人気作品です。スタン・リーは、沢山のヒーロー物を創作してきましたが、「アイアン・マン」は、「ファンタスティック・フォー」「超人ハルク」と並び、彼の初期の名キャラクターです。この3つの漫画が発売された当時は、冷戦時代まっただ中で、スタン・リーはコミックに時代の問題点や不満点をうまく取り入れ、人々の共感を呼びました。
他のヒーローものとは異なり、アイアン・マンは、特殊能力を持ったり体の突然変異で不思議な力を身につけることはありません。主人公のトニー・スタークは、科学者であり自分の知識と才能でアイアン・マンのスーツを開発します。これは、アメリカン・ヒーローもののなかでは「バットマン」と並び、珍しい位置づけです。
このコミック版「アイアン・マン」は発売以来、現在に至るまで人気があり、何度もアニメ化されたりゲーム化されていきました。そして、「アベンジャーズ」という新しいコミックに中心的存在で登場します。「アベンジャーズ」とは、マーベル・コミック社の発売するそれぞれの主役たちが集まって結成した組織です。キャプテン・アメリカ、ソー、アイアン・マンの3人が中心となり悪と戦います。

「アイアン・マン」は、このように様々なメディアで人気があり、さらにヒーローの混成チームを描くコミックでも中心となって平和を守るのです。
マーベル・コミック社は、自社がケイン利を保有する「X-メン」「ハルク」「ファンタスティック・フォー」「スパイダーマン」の実写映画化を許諾し、映画はアメリカで次々とヒットしてきました。
そこで、マーベル社は自ら映画制作に乗り出すのです。第一作目は、大切なキャラクターのひとつである「アイアン・マン」。自分たちで愛すべき作品の映画化に望むことにしたのです。

時間を1990年代に戻します。
当時、まだCG技術もそれほど発達していなかった頃、そしてマーベル・コミック社のヒーローものが映画化されていなかった頃のお話です。まず1990年にユニバーサル・スタジオがステュワード・ゴードン監督で低予算映画を作ろうと映画化権を取得します。
しかしうまくいかず、1996年に20世紀フォックスが権利を買い取ります。主人公はニコラス・ケイジです。コミック好きの彼が主演をやりたいと言ったのであわてて権利を押さえました。しかし映画化まではたどり着きませんでした。するとトム・クルーズが自らプロデューサーも兼務する形で「アイアン・マン」の映画化に手を挙げてきたのです。脚本家のジェヴ・ビンターと原作者のスタン・リーは脚本開発をはじめ1999年にはクエンティン・タランティーノが監督をすしたいとアプローチしてきました。しかし契約がうまくまとまらず、混迷を極めたフォックスは、企画全体をニューライン・シネマに売ってしまいました。
2000年、「アイアン・マン」の実写映画化企画はニューラインにより別の脚本家をたて制作され、ストーリーが完成します。
さらに、2004年からはニック・カサベテス監督によりさらに新たな脚本開発が始まります。そして2006年度公開に向け新しいプロジェクトがスタートしました。しかし、またうまくいかず企画は消えてしまいました。

様々な脚本家が投入され、映像化が検討されましたが結局どの脚本もうまくいかず、スタジオは映像化の権利を保有しながら、うまく実現化できずにいたのです。こういうケースはハリウッドではよくあります。スタジオ、監督、脚本家の間には必ずエンターテイメント専門の弁護士が介在します。弁護士は企画が揉めるほど活躍し高額な給料を手にするのです。よってうまくいく話も弁護士が入ることでこじれてしまい時間がかかりうまくいかないのです。弁護士は意図的にもめ事を起こしているとは思いたくないですが、クリエイティブな考えをしない人間が介在することで話がまとまらないことはとてもおおいのです。

こんな騒動が水面下で行われている最中、DCコミックの「バットマン」がティム・バートン監督の手で映画化され大ヒットします。それを皮切りに次々とアメリカン・コミックのヒーローたちが映画化されていきました。マーベル・コミック社は、「ハルク」など映画化権を売り、コミック販売以外に映画から莫大な収入を得るようになっていきました。そして「スパイダーマン」の登場です。この映画は、スパイダーマンが大好きなサム・ライミ監督により3作品作られ、どれも大ヒットとなります。

2006年、マーベル・コミック社は自社で映画制作会社を興します。映画化の版権を売るだけではなく自分たちで映画の制作を行うことにしたのです。その会社の第一回作品を模索し、人気のある「アイアン・マン」を映画化する方向で意思統一をしました。そして、15年も揉めていた企画に決着をつけ、映画化権をスタジオから買い戻したのです。

そして、自社の力で企画開発を行います。マーベル社は、脚本段階でストーリーとアクションに注力してストーリーを作り上げました。ベトナム戦争時に捕虜となる主人公を、時代に合わせアフガニスタンで武装集団に拘束されるというように設定を変更しています。そして冷戦時代がテーマだった原作をポスト9.11の悩めるアメリカと重ね合わせることに成功しています。

俳優人は、自分が言いやすい台詞を言える権利が与えられました。俳優が一番キャラクターに近いからという理由です。そしてスタッフは映画の根幹となるストーリーとアクションに注力しており、台詞に関しては役者に任せるおおらかさがありました。
映像面では、ILM、スカイウォーカーサウンド、スタン・ウィンストン・スタジオをはじめとする素晴らしい映像クリエイターに任せました。
この結果、彼らが結束してストーリーをリアルなものにすることに成功しています。

映画は、世界的に大ヒットとなりました。そして映画の評判も総じて高く、ただのアクション映画という枠から飛び出し芸術作品としてもある評価を得ることができました。

皆さんは映画を最後まで見ましたか?エンドクレジットの後に、この作品の続編に関する情報があります。サミュエル・L・ジャクソンが、「アベンジャーズ」について話しているのです。ということは、「アイアン・マン」の続編は「アベンジャーズ」になるのでしょうか?

契約だと、メイン・キャストは3部作に出演するオプション契約を結んでいます。よって、「アイアン・マン2」「アイアン・マン3」となるのか、「アベンジャーズ」に移行するのか、両方が制作されるのか現在のところはっきりとしたことはわかりません。

発表だと、「アイアン・マン2」が2010年4月30日に、「アベンジャーズ」が2011年に全米公開予定です。このマーベル・ユニバースは、今後さらに広がっていくようです。


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今宵、フィッツジェラルド劇場で [アメリカ映画(00s)]

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A Prairie Home Companion (2006)

今回は、「ザ・プレイヤー」「ショート・カッツ」などで知られるロバート・アルトマン監督の遺作であり、数々の映画賞を受賞した隠れた名作を紹介します。

「プレーリー・ホーム・コンパニオン」というラジオ番組を知っていますか?
1971年に始まったバラエティ番組で、アメリカ全土で毎週土曜日の夕方5時から7時まで放送されています。司会はギャリソン・キーラーが務めていて、ミネソタ州のフィッツジェラルド劇場で収録されています。この番組の特徴は音楽で、毎回カントリーやロック歌手が登場し笑い話を含めながら歌を披露していきます。日本でもAFNで日曜日の夕方聞くことができます。日本に住むアメリカ人にとってもどこか懐かしく母国を思い出す番組となっているようです。

30年以上も同じフォーマットで続いていて、今でもアメリカ中で聞かれているこの番組。日本でいうと、タモリ司会、新宿アルタで収録されている長寿番組「笑っていいとも!」に似たラジオ・バラエティ・ショーだと思います。

この人気長寿番組「プレーリー・ホーム・コンパニオン」が映画になったのです。番組のホストであるギャリソン・キーラーが書いた脚本は、実際にある自分の番組がモチーフで、そこで繰り広げられる映画の話です。
映画では、30年以上続いた番組が終了してしまう最後の1日を描いています。長く続いてきた番組のファンにいつも通りのショーを提供しようとがんばる出演者とスタッフの姿を追いかけていきますが、番組同様、歌あり笑いありの楽しくも切ないストーリーです。

映画の出演者も豪華です。メリル・ストリープやリンジー・ローハン、ウディ・ハレルソン、トミー・リー・ジョーンズが脇を固めながら、番組ホストギャリソン・キーラー役やおおくの歌手は、本人自身が出演し演じています。

映画はもともと「Savage Love」というタイトルでした。80才になるロバート・アルトマンがこの映画を完成することができるのか不安視されたので、結局撮影には「マグノリア」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のポール・トーマス・アンダーソン監督が「バックアップ」監督として全ての撮影においてアルトマンを助ける役目で参加しました。
映画は2005年の夏に完成し、11月1日にニューヨークでこっそり上映されました。するとお客さんの反応がとても良かったので、ピクチャーハウスという配給会社が映画を買い取り全米での上映が決まりました。
このとき、ピクチャーハウスの社長であるボブ・バーニーは、タイトルを30年以上全米で親しまれている「A Prairie Home Companion」に変更しました。このタイトル変更に関しては、いろいろと戦いがあったのですが、結果、おおくの人に映画を認知して貰うことができ、ヒットすることになります。

日本では、番組自体の認知度が低いのでタイトルは「今宵、フィッツジェラルド劇場で」と変更され、小さな公開で終了してしまいました。

監督ロバート・アルトマンは、2005年無冠の名監督でしたがアカデミー賞から栄誉賞を受賞しました。受賞直後に本作を監督し、映画がヒットした後2006年11月20日に亡くなりました。


<今宵、フィッツジェラルド劇場で を購入>
今宵、フィッツジェラルド劇場で

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インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国 [アメリカ映画(00s)]

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INDIANA JONES AND THE KINGDOM OF THE CRYSTAL SKULL

久しぶりの更新です。今回は、今年最大の注目作「インディ・ジョーンズ」シリーズ4作目のクリスタル・スカルの王国です。

実は、ルーカスフィルムから、ロサンゼルスにあるパラマウント・ピクチャーズのスタジオでのスクリーニングに招待されました。
パラマウント・ピクチャーズに行ってみると、今回の試写は関係者向けのものだったことがわかりました。映画が始まる前には、ロビーに「LOST」や「クローバーフィールド」で有名なJ.J.エイブラハムスがいました。彼はスタジオで「スタートレック」の新作を撮影中だそうで、撮影後に試写にかけつけたようでした。他には、「アメリカン・グラフィティ」に出演、その後「アポロ13」などで映画監督になったロン・ハワードの家族も来ていました。おおくはルーカス・フィルムとパラマウントの人々でした。

さて、映画が始まります。お約束「LUCAS FILM LIMITED」のロゴで拍手が湧き起こりました。そして、パラマウント・ピクチャーズのロゴは、インディ・ジョーンズ・シリーズ過去3作と同じ旧ロゴで始まります。勿論、あの山マークがそのあとにシンクロして山の映像に繋がっていきます。

映画のメタバレはしませんが、本作は前3作品を好きな人にとってたまらないものになっています。ここで記して問題ない範囲でお話ししますと、今回はインディ・ジョーンズと「レイダース」に登場したマリオン(カレン・アレン)のロマンスが描かれます。この話はとても面白いので、映画を見に行く前に「レイダース」を見ておくことをお勧めします。そして悪役にはケイト・ブランシェットがキャスティングされています。ブランシェットはロシア人役で、ロシア訛りの英語をとてもうまく話していました。

これ以上書くとストーリーに触れてしまうので、この辺でやめておきますが、インディ・ジョーンズ好きの私としては大方満足のいく出来映えでした。ただ、どうしても納得の出来ないシークエンスが2つありました。ひとつは原爆の下りで、これは日本人にとっては到底理解できないストーリー展開でした。もうひとつは、エンディングのあるエピソードです。

実は、インディ・ジョーンズの4作目はかなり昔から企画化されていました。「グリーンマイル」のフランク・タラボンが書き上げた脚本はとても素晴らしく、これが映画化されると誰もが思っていたそうです。しかし、ジョージ・ルーカスがどうしてもやりたかったストーリーを実現化するためにタラボン版のストーリーはお蔵入りとなってしまい、結局採用されたのがルーカス版だったわけです。このルーカスが拘った部分がどうしても納得できませんでした。

映画は、過去3部作のスタッフ&キャストが終結しています。監督は勿論スティーブン・スピルバーグ。今回も彼の演出が冴えています。プロデューサーはルーカス、キャサリーン・ケネディ、フランク・マーシャルです。音楽はジョン・ウィリアムス。撮影は全3部作と異なり、スピルバーグ映画の撮影監督として常連のヤヌス・カミンスキーです。今回はシネスコサイズなので、35mmコダックを使ったアモレンズで撮影しています。過去3部作にトーンを合わせるため、フォーカスを5.6まで絞っています。よって往年のハリウッド映画のように陰影が強い映像となっています。

作品に関しては、公開後にまた分析させていただきます。

<インディ・ジョーンズ3部作を購入>
インディ・ジョーンズ アドベンチャー・コレクション (期間限定生産)

インディ・ジョーンズ レイダース 失われたアーク《聖櫃》

インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説

インディ・ジョーンズ 最後の聖戦

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世界最速のインディアン [アメリカ映画(00s)]


THE WORLD'S FASTEST INDIAN

伝説のバイク「インディアン」で世界最速(時速300キロ)の記録に挑んだ男の真実の物語の映像化した映画です。

ストーリーは、ニュージーランドの小さな町で暮らす63歳のバートが、愛車であるバイク、1920年型インディアン・スカウトを改造し、長年の夢であった米国ユタ州で行われる最速バイクレースに挑戦するというシンプルなものです。

まずは、インディアンというバイクについて紹介します。
「インディアン」とは、1901年に、マサチューセッツで販売開始された"エンジン付き自転車"のことです。ネイティブ・アメリカンの人々のように自由に「鉄の馬」を走らせたい、という願いを込めて"インディアン"と名づけられたそのマシンは圧倒的なパワーと耐久性でハーレー・ダビッドソンなどを大きく引き離してNo.1の地位を獲得していきました。しかし1953年、安価なイギリス製の輸入バイクに押されて、工場をクローズ。52年間で作られた、インディアン製のバイクは、「伝説」となり、あのスティーブ・マックイーンも1930年型の"インディアン・チーフ74サイドカー"を愛機としていたという伝説が残っています。

主人公のバート・マンローは実在の人物で、1000cc以下の流線型バイク世界最速記録保持者です。彼は、ニュージーランドで生まれ15歳からバイクに乗り始めました。1920年、インディアン・スカウトを購入。このマシンの元々の最高時速は80キロ台でしたが、よりスピードを求めて改良を重ね続けました。そして1962年、63歳の年齢ながら、アメリカのボンヌヴィル塩平原(ソルトフラッツ)で世界記録に初挑戦し、時速288キロの世界記録を達成します。以後も70歳過ぎまで9年間ボンヌヴィルへ行き、1967年には時速295.44キロのインディアン最速記録を出しました。ちなみに公式記録にはならなかったのですが、この年に出した最高時速は331キロだったといわれています。

監督のロジャー・ドナルドソン(オーストラリア人)は、この企画を思い立ってから様々な取材を行い、映画化までに20年もかかってしまいました。そういった意味では、彼の生涯をかけた企画だったのかもしれません。マンロー自身は、なんとかしてニュージーランドの英雄であるマンローの偉業を映画化したかったのですが、ニュージーランドとオーストラリアの映画市場は、それほど大きな者ではなくなかなか資金が集まらなかったそうです。そんな中、ニュージーランド出身のピーター・ジャクソン監督が「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズをニュージーランドで制作し、状況が一変しました。ニュージーランド映画でも十分にビジネスになるということが判明したこと、そして、ニュージーランドに映画の制作会社やスタッフが増えたことが追い風となったのです。
結局、Sony Picturesが中心となり、映画の制作資金が集められました。日本からもソニーピクチャーズの日本支社が積極的に資金提供を行いエクゼクティブ・プロデューサーとして3人の日本人がクレジットされています。

映画「世界最速のインディアン」は、このバート・マンローがインディアンで世界最速のスピードを出すまでを描いているのですが、ただ実話を追いかけるのではなく映画的にとてもドラマチックな演出が施され、感動させられる作品となっています。
ニュージーランドの人々の粋な見送りに始まり、船でロサンゼルスに着いたバートがユタを目指してヒッチハイクしていく旅は、多くの個性的な人々との出会いが彩っていきます。それぞれのエピソードがどれも楽しい話なので、観ている観客もいつの間にかバートを応援してしまう展開となっています。私が感動したのは、ユタ州のレース会場に到着した彼が、目の前の白い平原を見て幸福に浸るシーンです。その後もさらに大きな感動がありますが、人生賛歌のドラマとして、しっかりと物語を語っている映画も少ないと思います。

とても素晴らしい映画なのですが、日本では小さな公開で終わってしまったのがとても残念です。日本のSONYは、せっかくこの企画に出資したのですから、最後まできちんとケアすべきだったと思います。
ニュージーランドとオーストラリアでは、この映画は大ヒットしました。そして、バート・マンローは、モーターサイクルの伝送入りを果たしました。

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世界最速のインディアン ゴッド・オブ・スピード・エディション


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ブレードランナー ファイナルカット [アメリカ映画(00s)]


Blade Runner The Final Cut(2007)

私がとても好きな映画「ブレードランナー」について書こうと思います。といってもこの映画に関しては既に紹介しています。作品については過去のブログをご覧ください。

今回は、「ブレードランナー」の最新版である作品と、それに併せて発売される次世代DVDについてです。

映画の歴史だけでなく、その後の工業製品や建築デザインにまでインパクトを与えたリドリー・スコット監督作「ブレードランナー」。公開から25年が過ぎても色あせることなく映画ファンのなかでは評価が高く劇場では再上映が行われてきました。

結果、7バージョンも制作され、それぞれの解釈がおおきく異なっているという珍しい作品となりました。(解釈はいくつか存在しており3バージョン〜7バージョンの幅があります)
1)リサーチ試写バージョン(ディレクターズ・カット)=Original Workprint
2)北米劇場公開バージョン(プロデューサーズ・カット)=Domestic Cut
3)インターナショナル・バージョン(プロデューサーズ・カット)=International Cut 日本では完全版と呼ばれている
4)クライテリオン・バージョン (3)とほぼ同じ
5)北米テレビ放送バージョン
6)最終版(1992年公開、10周年記念の再編集バージョン、ディレクターズ・カット)=Director's Cut リマスター版(2006)も存在。
7)2007年版

※ディレークターズ・カットを「最終版」と命名してしまったのは日本のワーナーです。これにより今後混乱が生じる可能性があります。

日本では、(3)の日本劇場公開時のバージョンであるプロデューサー・カットか、ビデオやDVDで販売された(6)の最終版と呼ばれるディレクターズ・カットの2バージョンを見た方がおおいはずです。
インターナショナル・バージョンの一番の特徴は、明るいエンディングであることです。ラストシーンは、緑の森の空撮です。主人公デッカードとレプリカントのレイチェルは、二人で幸せに人生を歩むという後日談がナレーションで入ります。
ディレクターズ・カットは、エンディングは暗く、デッカードまでもがレプリカントではないかという疑念とその後の不安を感じる終わり方となっています。

制作のラッド・カンパニーは最近活動をしておらず、フィルムは配給元のワーナーブラザースが所有していたようですが、2001年にワーナーは(1)(3)そして新しいバージョンの3種を入れたDVDボックスを販売しようと試みます。しかし、コンプピーション・ボンドと呼ばれる保険会社と権利問題の訴訟が起こり、もはや映画「ブレードランナー」は7バージョンで完結、そして映画館やDVDでの視聴もできない状態にありました。

そんな中、2006年にワーナーブラザースは映画の配給権を完全に整理し、新しく「ブレードランナー」の25周年を記念してDVDを発売すると正式にアナウンスしました。DVDの映像は綺麗にレストアされているようだ、というニュースはネットを通じて世界中の「ブレードランナー」ファンを駆けめぐりました。
そして、さらに新しい情報が付け加えられたのです。新たなバージョンの登場です。リドリー・スコット監督は作品の25周年にあわせDirector's Cutをバージョンアップさせるのです。

結果、リドリー・スコット監督による「Blade Runner The Final Cut (2007)」が制作されました。1992年制作の最終版(Director's Cut)に手を加えた形で制作が進められました。
オリジナルのネガ・フィルムはデジタルスキャンされ、最新のデジタル技術で撮影時のミスを修正しています。特に特撮シークエンスは、丁寧にレストア作業が行われました。監督が必要だと感じたシーンは、新たに撮影が行われました。
音響は5.1チャンネルのドルビーデジタルにリマスターされました。

以下が大きな変更点です。
・北米公開版で削られていた残酷なショットの復活
・ブライアンとデッカードがNexus6について語るシーンの追加
・デッカードがヘビ売りのハッサンと会話するシーン。この映画を嫌いなハリソン・フォードではなく、ハリソン・フォードの息子の口元を新たに撮影し、父親の声をリップシンクさせている。
・チャイナタウンの追跡シーンに(1)からショットを追加
・ユニコーンのシーンをレストア
・デッカードがゾーラを追い詰めるシーンで、スタントマンにより新たに撮影されたショットを追加
・バティがタイレルに詰め寄るシーンで、台詞を「I want more life, fucker.」から「I want more life, father.」に変更。撮影時に2バージョン収録しており、Fatherバージョンは(1)と(5)でかつて使用された。

さて、皆さんは1つの映画に何故沢山のバージョンが存在するのか不可解な思いに捕らわれたと思います。細かな変更をして、その度にバージョン数が増えていく・・・
これにはいくつかの要因があります。まずは、編集権が誰にあるかということです。通常、映画の全体を統括するプロデューサーは、最終的な編集権を有します。
監督が自分で編集したバージョンがプロデューサーに認められると、それが劇場で公開されます。この場合は、バージョンが1つしか世に存在しないということになります。
しかし、おおくの作品の場合は、監督が編集したバージョンをプロデューサーが認めず、変更を施してしまいます。理由は「稼ぐため」です。映画が長いと1日に劇場で上映する回数が減り、入場者数も減ってしまいます。よって映画は2時間以内におさめたいのがプロデューサーの基本的な考え方です。さらにたくさんのお客さんに満足してもらうため、監督の編集したバージョンを試写し、お客さんの反応を見てプロデューサーが編集し直すのです。
「ブレードランナー」は(1)の試写で、お客さんがわかりにくいということが分かったので、ナレーションを追加しました。さらにエンディングが暗いという理由で、明るい終わり方に変更されました。
このプロデューサーの作業は、お客にとっては良いことだったりします。実際、私は全バージョンで一番(2)のプロデューサー・カットが好きです。

しかし、監督自身は納得いきません。普段なら監督編集バージョンは、スタジオの倉庫に眠り二度と表に出ることはないのです。
プロデューサーと監督の編集における確執については「未来世紀ブラジル」について書かれた「バトル・オブ・ブラジル」に詳しく書かれています。

つぎにややこしくしている問題は、作品と監督のその後、です。
作品が評価されたり、監督が有名になると、ファンはそれらについて詳しく知りたくなります。作品には監督が真に望んだバージョンが存在するらしい、という噂はすぐに広まっていくのです。熱狂的なファンのいる「ブレードランナー」、そして監督として成功していったリドリー・スコットの発言力が強まり、過去のバージョンを見たいという要求が強まって監督版が公開されました。

別バージョンを公開すると、スタジオは思いもかけず儲かることを発見します。
そして、次から次へと様々なバージョンが公開され続けてきました。

そんな裏事情がありながら、「ブレードランナー」ファンの私はこの現象を25年間、楽しみに追いかけてきました。「Blade Runner The Final Cut (2007)」も早速デジタル上映で鑑賞してきました。とても美しく生まれ変わった「ブレードランナー」を映画館のスクリーンで再び体験できるたのは夢のようでした。20年近く前に子供だった私が見た時の印象とは違った見方ができたのも嬉しい誤算でした。とにかく新しい発見がたくさんあり、作品の素晴らしさを改めて思い知らされました。

映画は1回見て終わり、と思っている方がおおいでしょうが、25年もかけて1本の映画を楽しめることもあるんです。

これに近い体験ができる作品がいくつかあります。ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」シリーズと「機動戦士ガンダム」シリーズです。それぞれにいくつもバージョンが存在し、それぞれにファンがいて、長年盛り上がっています。

2007年12月には、1,2,3,6,7の5バージョンが入ったDVDボックスが発売されます。ブルーレイディスクやHDDVDでの発売も予定されています。
特に(1)のリサーチ試写版は、史上初めてのリリースとなります。私もこれで全バージョンをやっと手に入れることができます。

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「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)

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アビエイター [アメリカ映画(00s)]


The Aviator (2004)

今回は、実業家ハワード・ヒューズを描いた「アビエイター」を紹介します。監督は、マーティン・スコセッシ、主演は「タイタニック」のレオナルド・ディカプリオということ、そして製作をワインスタイン兄弟率いるミラマックス・ピクチャズが請け負い、撮影前から話題になりました。第77回アカデミー賞では、11部門にノミネートされ、結局作品賞(「ミリオンダラー・ベイビー」が受賞)、監督賞(クリント・イーストウッド「ミリオンダラー・ベイビー」)、主演男優賞(ジェイミー・フォックス「Ray」)の主要部門で受賞を逃すという残念な結果を残したことが印象的な作品となりました。

この映画を語る上で、まず語らなければならないのが、ハワード・ヒューズという人物です。海外では知名度が高いのですが、日本ではそれほどでもありません。彼は、大富豪の子供として1905年に生まれます。父親はビジネスマン兼発明家で、今でも使われている石油掘削機の先頭部分を開発しました。丁度、世界的に石油の需要が高まってきたタイミングだったので、この掘削機の販売も伸び、数年で巨額の富を築いたのです。そんな両親は、ハワードが16才の時母親が、18才の時父親が亡くなり、父親の築いた遺産が望むことなく転がり込みました。

ハワードは、父親の遺伝子を受け継ぎ、子供の頃から様々な発明をします。初めて話題になったのは、まだ小学生のときに発明したモーター付き自転車でした。彼は、発明に巨万の富を生む力があることをこの頃から悟っていました。
彼は、若い頃から飛行機、レーシングカー、ハム無線に興味を持ち没頭します。そして、テキサスからカリフォルニアに移り、もうひとつの夢であった映画制作に没頭します。当時、素人がいきなり映画制作を始めたので、ハリウッドのスタジオは金持ちの道楽だと馬鹿にしました。ヒューズは、制作した映画の全てを自己資金で制作します。しかし、1928年に制作した「暴力団」でアカデミー賞最優秀作品賞にノミネートされます。
そして次の作品「地獄の天使」(1930)では、監督としても活躍します。この映画は当時としては破格の100万ドルという巨費を投じて制作されました。ヒューズは、第一次世界大戦のパイロット達を描くため、90機近い本物の戦闘機を購入し、実際に戦闘シーンを撮影しました。誰もが「完成しない映画」だとか「回収できない赤字映画」とからかいましたが、このことが話題となり、映画は大ヒットします。結局「地獄の天使」は、制作費を回収するまでには至りませんでしたが、ハワード・ヒューズは、映画業界に名前を残しました。
次に制作した映画「ならず者」では、ワイヤーブラを開発し、主演女優の J・ラッセルに着用させました。これにより映画はセクシーなイメージが強くなり映画制作者協会と対立しました。これもまた当時のマスコミでは話題となります。
彼は、映画業界で確実に存在感を示すようになると、キャサリーン・ヘプバーンやエバ・ガードナーなど当時の女優達との浮名を流しました。
さらにヒューズは、資金難に陥っていたメジャー・スタジオであるRKOピクチャーズを買収し、ハリウッドのスタジオトップとしても活躍しました。

映画業界で、確固たる地位を築いた頃、ヒューズは、もうひとつの夢に向かって動きだします。それが飛行機です。1935年ヒューズ・クラフト社を設立し、飛行機を設計、製造しました。彼が開発した技術は現在でも使われているものが多数存在します。

1935年、ヒューズはH-1という飛行機を開発し、世界最速記録を樹立します。彼は、さらに記録を伸ばそうと試み、結果ガス欠で墜落事故を起こしました。あわてて墜落場所に向かったスタッフや記者に無傷の彼は「まだいける」と言ったそうです。当時、壊れた機体の前でスーツ姿のヒューズが話す姿がフィルムに記録されています。
1939年には、自らが飛行機を操縦し、わずか39時間で世界一周を成し遂げます。ヒューズは、最新鋭の飛行機と無線技術を使い世界一周を成功させたのです。このニュースは当時大々的に報道され、ニューヨークでは大規模なパレードが行われおおくの市民がヒューズを歓迎しました。

ハワード・ヒューズは、自分の設計した飛行機を操縦したり、世界一周を成し遂げたりして、一般の市民だけでなく世界中のパイロットから尊敬されました。それは、お金のためではなく夢に向かって挑んでいるからでした。

同じ年、彼は、アメリカでも大手の民間航空会社を買収します。おおくの人に空の旅の素晴らしさを伝えたかったのです。そして長距離旅行への情熱を注いでいきました。彼は、民間航空会社としては初めて気密されたプロペラ航空機「コンステレーション」をオーダーします。これにより飛行機の旅は一般人にとって楽なものになりました。高い高度を飛べるので、飛行機に乗るときに厚着をしなくて良いのです。そして酸素マスクも必要ありません。この技術は勿論現在の民間航空機でも使われています。さらに長距離路線を登場させ、歴史上初めて、航空機による旅行を実現化しました。
この航空会社は、TWAと名前を変え、パン・アメリカン航空と熾烈な競争を繰り広げました。

ヒューズは生涯で4回の航空機事故を体験し、そのうち3回は大惨事でした。
1946年には、自らが開発した校則偵察機の初フライト時に機体が故障し、ハリウッド近くに墜落してしまいます。普通なら故障が起きたらパイロットは緊急事態を宣言し、近くの飛行場に着陸します。このときもサンタモニカ空港に着陸できたはずですが、自分で故障の原因を確かめ、その問題点を解明したいという衝動が先に出てしまいました。この事故でヒューズは大けがを負いますが、入院中も飛行機への情熱を傾けます。
この事故でヒューズの人生は一転します。ヒューズは痛み止めの薬として使われたコデインという麻薬の中毒になり、その後死ぬまで使い続けていくのです。

ヒューズは、退院後、世界最大の木造航空機H-4 ハーキュリーズを完成させました。この航空機は巨大で誰もが空を飛ばないと馬鹿にしました。この機体は、巨大でそれまでの操縦システムでは飛行機を飛ばすことができませんでした。そこで、ヒューズは油圧を使った人口感覚システムを開発します。これは、今でも航空機や車で使われている技術で、わかりやすくいうと車のパワーステアリングのようなものです。1947年、ヒューズはハーキュリーズを自らが操縦して飛ばせました。これもまた当時大ニュースとなりました。
ヒューズは、ハーキュリーズの開発費を巡り、国会で証言を求められます。人生で最も窮地に追い込まれた瞬間でしたが、彼は持ち前の性格で逆に国民を味方に付けてしまいました。

ハワード・ヒューズという人は、このように派手な話題を次々と振りまき、当時は、大富豪というだけではなく、発明家、パイロット、映画制作者という多面的な顔を持ち合わせていたようです。

1968年、フォーチューン誌はヒューズの資産を13億ドルと推定、全米一の資産家となりました。この増え続ける資産とは対照的に彼自身の世界は狭まっていきました。

ヒューズは、コデインの影響で強迫性障害という精神病になってしまいます。50代になると、事業を行う気力もなくなり、会社は彼の部下が率いるようになります。会社の役員ですら、ヒューズの顔を見たことがないようになっていきました。本人は、ラスベガスのホテルに籠もり、誰とも会わなくなりました。このホテル移動では、ベッドに横たわったヒューズが無菌状態の部屋に運ばれたというニュースが報道され話題になりました。誰とも会わなくなったヒューズは、ホテルの部屋から指示を出し、TWAの売却益でラスベガスの大半の土地を購入したり、カジノ・ホテル、デザート・インを買収したりしました。その後、アカプルコのホテルに移り、体調が悪化、アカプルコからアメリカに戻る際に死亡します。

さて、やっと映画のお話です。
もともとマイケル・マン監督が企画していたこの映画、主役のハワード・ヒューズ役はジム・キャリーでした。しかしマン監督が「インサイダー」(1999)と「アリ」(2001)を監督しなければならず、「タクシードライバー」で有名なマーティン・スコセッシに監督依頼が来たのでした。「ギャング・オブ・ニューヨーク」で、アカデミー賞を逃したスコセッシ監督は、次回作で、もう一度アカデミー賞を狙いに行きます。主演は「ギャング・オブ・ニューヨーク」で意気投合したレオナルド・ディカプリオです。

若い頃、ヒューズの伝記を読んだことのあるディカプリオは、ヒューズのミステリアスで複雑な人間性に衝撃を受けたそうです。多面的な性格を持ち、人々を魅了したヒューズ。そして世界最大の飛行機を作り史上最高の制作費をかけ映画を制作、さらに世界中の美女との交友....すでにハワード・ヒューズという人物に興味を持っていたディカプリオのもとにスコセッシがヒューズ映画を作るという情報が入ったとき、直ぐに飛びつきました。ディカプリオは、綿密なリサーチを行い脚本に様々な意見を追加し、厚みを持たせました。主演というよりより製作者に近い立場でプリプロダクションに関わっていったのです。

この波瀾万丈なハワード・ヒューズという人物を映画にするのは、大変なことです。あまりにエピソードが多いヒューズをどう映画にするべきか、長い間議論が繰り返されました。スコセッシ監督とディカプリオは、ヒューズが一番生き生きしていた時代を描くことにします。それは、ハリウッドで「地獄の天使」を制作する頃からハーキュリーズの飛行を成功させるまでです。この時期の出来事を脚色しつつ映像化しました。そして、TWAとパンナムの攻防も取り入れます。

スコセッシは、この映画を当時の主流だった1.33:1(SDTVに近いサイズ)で撮影しようと試みましたが、現在の映画館ではビスタサイズでの上映がスタンダードになっているので、あきらめシネスコサイズを採用しました。
その変わり、撮影は、当時の色を出すため、かつて使われていたシネカラーとテクニカラーの現像色を再現して行われました。これにより30年代の華やかなハリウッドが映像化されています。

映画は、2004年にアメリカで公開され、スコセッシ監督作品としては初めて興行収入が100億ドルを突破しました。日本では残念ながらヒットしませんでした。これは、配給が松竹できちんとした宣伝がなされなかったこと、そしてハワード・ヒューズという人物が日本では有名でなかったことが考えられます。

映画は第77回アカデミー賞で、もっとも期待されていましたが、残念ながら主要な賞では受賞を逃してしまいました。
しかし、このことがバネになり、スコセッシ監督とディカプリオは、「ディパーテッド」(2006)で見事にアカデミー賞作品賞と監督賞を受賞しました。

その後:
ヒューズは飛行機事故で入院中、自動で起き上がれる構造のベッドを発明します。これにより、重傷で体を動かせることのできない患者が楽に食事を採れるようになりました。

ヒューズ・エアクラフトの全株式を使って設立したハワード・ヒューズ医学研究所は、現在世界第2位の医学研究財団となっています。

ヒューズ・エレクトロニクス社は、ヒューズが設計した人工衛星を事業化します。そして初めて月面に着陸した無人探査衛星サーベイヤーを始め、放送衛星を設計、運用しています。最近だと衛星放送(CS)はヒューズ社が開発したものです。

TWAは、世界の空を飛ぶ華やかな航空会社として60年代は憧れのエアラインでした。ヒューズは、TWA全盛時に社を保有していましたが、その後反トラスト法により、社を手放しました。当時は映画人脈を使っておおくのハリウッドスターが使うエアラインとしても有名でした。しかし1978年のカーター政権の時、航空業界の規制緩和が行われ収益が悪化します。そして、おおくの航空会社が倒産する中、TWAも経営が傾いていきます。そして2001年、遂にアメリカン航空に吸収されてしまいました。

ヒューズが買収したラスベガスのカジノホテル、デザート・インは、その後営業を終了、現在はウィン・ラスベガスがその場所に建てられました。今でもウィンの脇の道はデザート・ロードという名前です。

ヒューズの夢だった巨大飛行機「ハーキュリーズ」は、商品化されませんでしたが、1982年ロングビーチで展示された後、1995年にオレゴンの博物館へ移動、現在も見ることができます。

★文中のリンクは、過去の記事へのリンクです。

<マーティン・スコセッシ + ディカプリオの映画を購入>
ギャング・オブ・ニューヨーク

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ブラッド・ダイヤモンド [アメリカ映画(00s)]


Blood Diamond (2006)

皆さんは「紛争ダイヤモンド」の意味を知っていますか?シエラレオネという国を知っていますか?
この映画は「ラストサムライ」などで社会派映画を作り続けるエドワード・ズゥイック監督によるダイヤモンドにまつわる映画です。
「深刻なテーマと感動的なストーリーは相乗効果を生む」という彼の映画作りのポリシーが凝縮されています。

ご存じの通り、ダイヤモンドは国際市場で高値で取引される天然の石のことです。ダイヤモンドのおおくは、アフリカで産出されます。特にシエラレオネやアンゴラ、リベリアあたりでは、世界のダイヤモンドの半数以上が産出されています。
アフリカでは国内紛争の武器取得のために、ダイヤモンドが利用されます。政府反乱軍などは、平和な村を略奪し、村民を殺害します。そしてダイヤ採掘ができそうな若い男性は、とらわれ奴隷となるのです。それ以外の村民の多くは虐殺されたり暴行されます。採掘されたダイヤは武器の資金となります。
こう文章で書くと、そんなこともあるんだなあと思う程度かもしれません。しかし、事実はとても悲惨です。いきなり自分の自宅に武装集団がやってきて、家族が目の前で殺害されたらどう思いますか。そして、自分の両腕を切り落とされたらどうでしょう。
1990年代、このような残虐な虐殺や拉致が、我々の知らないアフリカの小国シエラレオネで起こりました。反政府組織RUFは、一時国土の2/3を掌握し、首都まで制圧してしまいます。結果、この内戦で7万5000人という死者を出します。元をたどれば、あの小さな光る石が起こした戦争とも言えるのです。

この悲惨な事件は世界に報道されました。特にシエラレオネと関係の深いイギリスでは、かなり大きく報道され、実際にイギリスによる政治介入も行われました。が、ほとんどの先進国では、このニュースは無視され放置されたのです。
何故でしょう?遠い小国で起きた内戦だからでしょうか。ここに報道の問題があります。特に日本の報道は皆さんもうすうす感じていると思いますが非常に偏っています。民放になると、「スポンサーの意向」を気にした報道となります。さらにそれを視聴する人々も国内の下世話な話題に興味を持つのです。こういう理由から「紛争ダイヤモンド」の事件は、日本で報道されなかったのではないでしょうか。唯一この事件を扱ったのはTBSの報道特集で取り上げられました。このことは賞賛に値しますが、残念ながら日本国民はこれを無視します。

さて、映画に話を戻しましょう。この世界中から無視された「紛争ダイヤモンド」事件、そして、それが元で勃発したシエラレオネの内戦は、時間が経つと共にとりかえしのつかない事態に発展していきました。
タブーとされる社会問題や、歴史の背後に隠された真実などを、エンターテイメントとして成立させるズウィック監督。彼は、この事件経緯を興味深く見ていました。ダイヤモンドとアフリカの関係を調べ尽くすのは当然だと考えたズウィックは、製作前からアフリカへ何度も足を運び、現地のさまざまな人に取材を敢行します。そして、「紛争ダイヤモンド」やシエラレオネの国内紛争をストーリーの中心にせず、映画として見応えのある1級作品に構築していきました。
これが、報道と映画の異なるポイントです。報道は、実際に起こった事件をありのまま伝えることが重要です。そこには演出や脚色が介在する余地はありません。映画はどうでしょう。場合によっては、いかようにも演出や想像を加える余地があるのです。本作では、現実問題にしっかりと照準を合わせながらも、現場では、緊迫感みなぎるサスペンスタッチと、ディカプリオら俳優たちの熱演が加わることで、実際に起こった事件をドラマチックに見せきっています。

これは映画の魅力の一つです。報道では誰も見向きもしなかった事件を、映画という媒体を使うことで、おおくの人々に伝えていくことができたのです。
こう書いていくと、映画「ブラッド・ダイヤモンド」は、なんだか難しい映画なのかなと思う方々もいるのではないでしょうか。答えは「NO」です。映画としての「ブラッド・ダイヤモンド」は、エンターテインメント映画です。そして主人公を演じるディカプリオは、人間味溢れるアフリカ育ちの白人を熱演しています。ダイナミックなアクション・シーンも素晴らしく、何度見ても映画としての完成度の高さは保証できます。
ズウィック監督は、本当に才能のある監督だなあと、この映画を見て改めて思い知らされました。映画としてお客さんを飽きさせず、映画を見た後には、今起こっている問題を観客に突きつけているのです。

2002年、シエラレオネの悲惨な内戦は、終結し、国連により「紛争ダイヤモンド」を世界に流通させないキンバリープロセス承認制度が成立しました。現在ではアメリカはじめおおくの国がこの制度に従い、人々が辛い人生を歩まないようになっています。
映画公開後、デ・ビアス社は、「紛争ダイヤモンド」問題で世界中から非難を浴びました。しかし社は自社が「紛争ダイヤモンド」には関与していないと否定しています。

映画は第77回ナショナル・ボード・オブ・レビューのトップ3、第79回アカデミー賞では5部門にノミネートされました。
この映画は、それよりも、世界中の「紛争ダイヤモンド」「シエラレオネ」を知らない人々に真実を知らせたということで歴史に残る作品となりました。

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ブラッド・ダイヤモンド 特別版(2枚組)

ラスト サムライ

マーシャル・ロー

グローリー


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バタフライ・エフェクト [アメリカ映画(00s)]


Butterfly Effect (2004)

日本では、話題になりませんでしたが、世界的には公開時に話題となったパラレルワールドを描いた映画の傑作です。
「バタフライ・エフェクト」とはカオス理論のひとつで、蝶々の羽ばたきが地球の裏側で台風を起こすかもしれないという現象をいいます。

監督・脚本のエリック・ブレスとジョン・グラバーは、ある映画制作の手伝いをして初めて共同で映画の撮影現場に参加して意気投合しました。しかし、その映画は制作費がなくなり制作中止となります。しかし二人は、趣味や嗜好が似ていることを知り、自分たちで映画の脚本作りを始めました。目指したのは今までにない、観客があっと驚くジェット・コースター・ムービーでした。

既にある映画とは全く違う斬新な映画、スリル満点な映画を目指した二人は数年を費やし面白いストーリーを思いつきました。それは、主人公があるきっかけから、人生を変えられる手法を見つけてしまうというアイデアでした。しかし、その能力を使うと意図した方向とは違う様々な影響が起こってしまう悲劇です。二人はこの脚本をたんなるファンタジーとせず、人間が引き起こす辛い現実を描くことにしました。そしてそこに、実際の我々の人生が反映されているようにしました。こうして、今まで見たこともないようなドキドキする映画の脚本ができあがったのです。

ハリウッド映画の場合、決定稿に至るまでには様々な脚本家が手を入れます。よって、最終的に映画に「脚本」としてクレジットされるのは運のいい人だけです。このように複数の脚本家が台本を直すことにより、ストーリーが練り込まれ、いわゆるハリウッドスタイルの脚本となっていきます。反面とんがった要素はそぎ落とされてしまいます。ブレスとグラバーは、ハリウッドスタイルを避け、最終稿まで誰にも渡さず2人だけでとんがった脚本を完成させたのです。

二人は完成した脚本を、クリス・ベンダーというプロデューサーに持ち込みます。脚本を読んだベンダーは、素晴らしい脚本だと悟り、すぐに上司へ連絡し企画のGOサインを求めます。
脚本の素晴らしさを認められたものの、新人脚本家に監督を任せるスタジオはありません。通常は、脚本はスタジオに買い取られ、別の監督がアタッチされます。脚本家は興行収入やDVD収入からあるパーセンテージのロイヤリティを受け取るのです。しかし二人はどうしても、この企画を自分たちで監督したかったようです。脚本だけ売るのには相当抵抗しました。

そんな中、ニューライン・シネマが制作した「ファイナル・ディスティネーション2(邦題:ファイナル・デッドコースター)」のスクリプトを担当したブレスとグラバーは、映画のヒットによりスタジオから信頼を得ます。そしてニューライン・シネマは、この二人に監督を任せ映画を制作するという英断を下しました。

ストーリーは、複数のパラレルワールドを描いていきます。そこで、撮影前には綿密な計算が必要でした。それは、撮影現場のチョイスやカメラの位置だけでなく、衣装や役者のキャスティング、特に子役の選択など膨大な作業が必要でした。二人は低予算にもかかわらず、地道に絵コンテを完成させ、金銭的な無駄を省きながら撮影をこなす方法を模索しました。

キャスティングは、主役のエヴァンにアシュトン・カッチャーが抜擢されます。彼は事前にリサーチを行い、複雑な主人公を見事に演じました。ケイリー役のエイミー・スマートは、結局4役を演じることになりました。しかし、見事な演技でそれそれの役を演じています。

映画はアメリカで公開されると、ボックスオフィス第一位となり大ヒットします。映画館で映画を見た観客のおおくは、何度も映画館に足を運び、映画の細部を研究するようになりました。この現象は世界各国で起こりました。映画の「バタフライ・エフェクト」です。

日本では、残念ながら宣伝力のない小さな会社が配給権を獲得してしまい、劇場でのメジャー公開はされませんでした。そして静かにDVDとして発売されてしまいました。こういう名作をきちんと観客に認知させない配給会社には問題があり、この現象が日本での洋画のシェアを低下させている要因でもあります。

ブレスとベンダーの二人は、この映画で評価され、現在はニューライン・シネマの下、新作を制作しています。タイトルは「A Cool Breeze on the Underground(2008年公開予定)」というサスペンスです。

2006年に、別監督、別脚本家、別キャスティングで続編が制作されましたが、こちらは高評価を得られませんでした。

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