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ユニバーサル スタジオ(テーマパーク) [映画会社]


Universal Studios

今回は、映画をテーマにしたテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ」を紹介します。
現在は、アメリカのロサンゼルス郊外とフロリダ、大阪の3箇所で展開しており、2010年にはシンガポールに4つめのユニバーサル・スタジオがオープンします。

<ユニバーサル・ハリウッド・ツアーのはじまり>
サイレント映画時代、ハリウッドにあるユニバーサル・スタジオでは、映画が多数制作されていました。その頃、スタジオ内を見学できるツアーが細々と運営されていました。うまくタイミングが合えば、本物の映画撮影現場を見学できるというものでした。これは、映画関係者などへのサービスといった程度の観覧ツアーでした。

1962年、MCAグループがユニバーサル・ピクチャーズを買収します。すると、このツアーに参加したいと希望する人々の数が急速に増えてきました。MCA参加に入ったユニバーサルはヒット映画をおおく制作したので、映画を見た客が実際の撮影を見てみたいと思ったのでしょう。このツアーは人気を博し、利益を生むまでに成長しました。そこで、会社はこのツアーを拡張しようと考えます。

まず、ツアー参加者は、トラムと呼ばれる乗り物に乗ります。そして、スタジオの中に入り、実際の撮影を見学したり衣装倉庫の中を覗いたりできるようにしました。ツアーの間、参加者はトラムを降りることはできませんでした。これは、実際の撮影に影響を与えないためです。
その後、このトラムツアーにイベントやスタントショーなどが追加されていきます。参加者は、このツアーで実際の撮影現場を見るだけでなく、様々なイベントも楽しむことができるようになっていきました。

<テーマパークとして>
その後、ハリウッド映画が世界を席巻しはじめると、トラムツアーは、さらなる拡大を模索し始めます。そして、遂に一大テーマパーク構想が始まりました。ハリウッド郊外にあるユニバーサルスタジオの脇の高台に映画に関するテーマパークをオープンします。そして、ユニバーサル映画に関する様々なアトラクションを設置しようという考えでした。テーマパークと本物のスタジオはかなりの高低差があり、テーマパークから眼下に大きな敷地の映画スタジオを見下ろすことができました。
トラムツアーもそのまま維持され、本物のスタジオ内を巡るのです。新たに計画されたトラムツアーは、テーマパークからスタートし、坂を延々と下って本物のスタジオ内を見て回るように設計されました。

ユニバーサル・スタジオに来たお客さんは、ユニバーサル映画のオープニング・ロゴである、「回る地球」を通り過ぎ、テーマパーク内に入ります。そこには、いくつかのアトラクションがありました。かつてツアーの一部だったスタントショーが独立し、動物のショーやメイキャップ・ショーなどが新たに接地されました。目玉はやはりアトラクションのひとつとしてリニューアルされたスタジオ・ツアーです。
この映画のテーマパークは、世界中からお客さんが集まり、年々リニューアルしていくことになります。

<テーマパークの拡張・拡大>
客数の増大に対処するため、まずは、敷地内に映画のセットを再現しました。ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」に登場するMel's Drive Inやニューヨークの町並みなどが再現されました。このテーマパークでは、映画の撮影は行われませんが、映画スタジオの雰囲気を模したのです。
そして、どんどん新しいアトラクションを作っていきました。やがて高台の土地が狭くなると、なんと、元々ある映画スタジオの敷地を潰してテーマパークを拡張しました。これにより、ユニバーサルスタジオは、アッパーロットとロウアー・ロットの2つの地区に分散されて開発が進みます。おりしもハリウッド映画の勢いが衰え始めたので、隣にある映画スタジオには空きが目立ち始めました。その使われないスタジオを利用しテーマパークを拡張したのです。

1980年代、ユニバサールは、スタジオツアーの改革に着手します。
今まで通り、本物のスタジオをトラムで回るだけだと、ツアーにむらができます。撮影が行われていない日曜日などは、ただの大きな小屋を見るだけのつまらないアトラクションになってしまうのです。逆にスターが出演している映画の撮影に出会えると、とても楽しいアトラクションとなるのです。
この問題を解決するため、使われていない土地とスタジオを利用し、アトラクションを設置しました。「ジョーズ」(H)では、トラムが湖の畔を進むと、大きな鮫が現れツアー客を驚かせます。「洪水」(H)では、トラムが町に入ると大洪水が客をめがけて発生します。「キングコング」(H)では、スタジオ内にトラムが入ると、突然、巨大なキングコングがトラムを襲うのです。これら機械仕掛けのアトラクションは好評でした。現在もこのアトラクションはツアーの目玉となっています。

この頃から、テーマパーク・ビジネスは順調に成長していきました。そして、ユニバーサル・スタジオは、テーマパークの拡張に着手します。

1990年代に入ると、大型アトラクションの建設が始まります。
バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」(J)は、1991年にオープンしたライドで、映画に登場するタイムマシン:デロリアンに乗り込み、時空を超えるという設定のアトラクションです。これは、オムニマックスという上映システムと、上下左右に動く椅子を組み合わせた構造で、同時に複数のデロリアンを稼働させることができます。このライドでは、映画に登場したドクがナビゲーターとして登場し、本物のデロリアンを模した乗り物にのりビフを追いかけるというストーリーで、映画を体験できるというとても優れたアトラクションでした。残念ながらハリウッドとフロリダでは2007年3月30日をもってこのアトラクションは終了します。
1996年、大ヒットした「ジュラシック・パーク」(HAJ)を体験できるリバー・アドベンチャーがオープンしました。これは、映画に出てくるジュラシック・パークを船で巡るツアーです。映画同様恐竜たちに追われるスリリングなライドです。

このように次々と新しい大規模アトラクションを企画し、さらなる拡大路線を取るユニバーサルは、フロリダに新たなテーマパークの建設を行いました。

<ユニバーサル・オーランド・リゾート>
1990年、ユニバーサル・スタジオは、フロリダのオーランドに土地を購入し、ユニバーサルスタジオ・フロリダをオープンしました。この場所のすぐ近くにはディズニーが、ディズニー・リゾートを運営していて、集客の相乗効果が予想されました。
ユニバーサルは、まず、ハリウッドと同規模のテーマパークを設置します。ここには、「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」やリニューアルされた「ジョーズ」(FJ)、「キングコング」(F)などのアトラクションが建設されました。そして、パークの中心に大きな人工湖を作り、そこで派手なスタントショー「マイアミ・バイス」ショー(F)を展開しました。この場所は、元々映画撮影スタジオではなかったため、スタジオツアーは省略されました。
「スタジオ」と名乗りながら「スタジオ」ではないテーマパーク、そして、ディズニー・リゾートの隣に小判鮫のように設置された小さなテーマパークが成功するかどうかは、誰もわかりませんでしたが、結果は大成功となります。
ユニバーサルは、2期工事「ユニバーサル・アイダンド・オブ・アドベンチャー」という新しいテーマパーク設立に着手し、現在では2つのテーマパークと複数のホテルを有する「ユニバーサル・オーランド・リゾート」として営業を行っています。

<ユニバーサル・スタジオ・ジャパン>
このオーランドの成功とディズニーの日本進出に触発され、ユニバーサルも日本進出に意欲を見せます。そして、大阪市と協議し2001年に「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」をオープンしました。元々ユニバーサル・スタジオ・大阪という名前にする予定でしたが、略称がUSO(ウソ)になるので、ジャパンに変更しました。
このUSJは、ハリウッドにあるユニバーサル・スタジオを模したのではなく、フロリダを模した構造となっています。本物の撮影スタジオは存在しないので(実際はMBSのテレビスタジオがある)、スタジオツアーはありません。日本人が不得意な参加型のアトラクションもありません。その変わり、ハリウッドとフロリダにある一番良質なアトラクションをうまく集めています。
オープン当初、火薬の問題や大阪市の負債などでイメージが悪かったUSJですが、現在は証券会社が筆頭株主となっており、ユニバーサル本社と大阪市の保有率は大きく下がっています。よって、他のユニバーサル・スタジオとことなり、独立した運営会社がユニバーサル・スタジオからライセンスを受けているという形をとっています。これにより、今後は他のユニバーサル・スタジオとは異なった開発が行われる可能性があります。

今後は、シンガポールにもユニバーサル・スタジオの設立が予定されています。これにより世界中に4カ所のテーマパークとしてのユニバーサル・スタジオが存在することになります。しかし、それぞれが全く同じ内容ではないところが興味深いです。発祥の地で現在もスタジオ・ツアーが残るハリウッド、広大な土地に2つのテーマパークを設置したオーランド、大阪に出現したローカライズされたUSJ、それぞれが似て非なるものなのです。

今後は、ハリウッドにできた「マミー・ザ・ライド」が日本にも来るのか?新アトラクション「トランスフォーマー」はどんなものなのか?話題に事欠かないテーマパークです。

<その他のアトラクション>
*「E.T.・アドベンチャー」HFJ :映画「E.T.」の世界に入り込むファンタジー・アトラクション
*「サイコ・ハウス」HF:ハリウッドとオーランドにある映画「サイコ」に登場したベイツ・モーテルの復元セット
*「T2:3-D」映画「ターミネーター」の監督であるジェームス・キャメロン自身が企画したライブアクションと3-D映像を複合したエンターテイメント・ショー
*「マミー」の復讐HF:映画「ハムナプトラ」をテーマにしたジェット・コースター型ライド。コースターが予想不可能な動きをして、かなり人気がある。
*「バックドラフト」HFJ:映画のテーマにもなっている炎についての解説と実際の火災シーンの再現
*「シュレック4-D」HFJ:映画「シュレック」の続編。3-D映像と動く椅子が見事にシンクロしています。
*「大地震」HF:映画「大地震」を再現したライド。地下鉄に乗ると、とんでもない大地震に見舞われる。USJでもこのアトラクションは企画されたが阪神大震災のため中止された。
*「ツイスター・ライド」F:映画「ツイスター」の竜巻を体験できる。

注)H:ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドにあるアトラクション
  F:ユニバーサル・スタジオ・フロリダにあるアトラクション
  A:アイランド・オブ・アドベンチャーにあるアトラクション
  J:ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにあるアトラクション

<関連リンク>
ユニバーサル・スタジオ
ジョーズ
ターミネーター
バック・トゥ・ザ・フューチャー
スパイダーマン
ジョージ・ルーカス
ムービー・ライド


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MGM [映画会社]


Metro-Goldwyn-Mayer

今回は、ライオンが「ガオー」と吠えるロゴでおなじみのMGMを紹介します。

1924年、アメリカで映画館チェーンを運営していたマーカス・ロウズは、ある問題を抱えていました。当時、映画館の競争は激しく、生き残るためには良い作品をいかに確保するかが課題となっていました。この問題を解決すべくロウズは、自分の映画館に安定した作品供給が行えるようにメトロ・ピクチャーズとゴールドウィン・ピクチャーズを買収します。これで、2社の制作する映画はロウズの映画館で上映が可能になりました。

しかし、新たな問題が勃発します。ロウズには映画を製作するという経験がなく、2社の運営は滞ってしまいます。そこで、ロウズは映画製作能力があり、2社を任せられる人物を捜します。ロウズが適任だと思ったのはルイス・メイヤーというプロデューサーでした。メイヤーはメイヤー・ピクチャーズという映画会社で社長兼プロデューサーをしていました。どうしてもメイヤーが必要だったロウズは、メイヤー・ピクチャーズを買収してしまいます。これにより、メイヤーはロウズ社の副社長に就任し、スタジオ部門のトップとなり3社を統括し映画製作を軌道に乗せました。ロウズによって買収したスタジオは3社の名前をとって「メトロ・ゴールドウィン・メイヤー」と呼ばれましたが、正式な社名はロウズ・インクでした。

MGMは、ロサンゼルス郊外のカルバー・シティに撮影スタジオを構え、本格的に映画製作に乗り出します。もともとメイヤー・ピクチャーズのロゴはオウムでしたが、合併を機にトレードマークをライオンにしました。メイヤーには早速大きな仕事が待ち受けていました。ゴールドウィン・ピクチャーズがローマで制作に入っていた大作「ベン・ハー」のマネージメントです。「ベン・ハー」は、大規模な制作になりすぎコントロールができなくなっていました。メイヤーは、この撮影をカルバー・シティに移し映画を完成させます。そして巧みな宣伝により映画を大ヒットに導きました。「ベン・ハー」の成功によりMGMの知名度は一気に向上し企業イメージもよくなりました。そして25年にはユニバーサル・スタジオを抜きハリウッドで一番大きなスタジオとなります。

MGMは、設立してすぐにゴールデン・エイジに突入します。MGM映画にとって豪華で気品のある作品が喜ばれるというポリシーで、豪華絢爛な作品が作られました。キャストもグレタ・ガルボ、ジョン・ギルバートなどの有名スターと次々に独占契約をして、映画に出演させました。バスター・キートンウィリアム・パウエルなどは独占ではなかったもののMGM映画で人気を博しました。新人の発掘にも力を入れ、1930年代には、クラーク・ゲーブル、ロバート・モントゴメリー、ネルソン・エディがスターダムにのし上がっていきました。

1930年には、初のオールカラー(テクニカラー)、サウンド・フィーチャー(絵と音が完全にシンクロする上映方式)の映画「ルージュ・ソング」を完成させます。

さらに同年、アニメ・シリーズを専門に制作していた会社から配給に関する権利を購入します。

このように色と音の技術を手に入れ、有名俳優とアニメという有力ソフトを手にしたMGMの躍進はさらに続きます。ロウズが経営する映画館チェーンはニューヨークを中心に展開していました。映画を見る客は文化的で目が肥えていました。MGMは、「オズの魔法使い」などアメリカ東部の客に受ける洗練された作品をおおく生み出しました。これが後のミュージカル映画の黄金期に繋がっていくのです。

1934年には、アニメ部門の強化のためヒュー・ハーマンとラドルフ・アイジングという二人のプロデューサーを起用しますが、制作費ばかりかかり成功しませんでした。しかしメイヤーは辛抱強くアニメ制作を続けます。アニメを作りつつけること10年。MGMにやっとスターが誕生しました。それが「トムとジェリー」です。トムとジェリーは、現在でも人気があるキャラクターとなりました。

戦中、戦後は、いよいよMGMの黄金期の頂点です。MGMは制作本数を減らし、よりお客さんに喜ばれる映画制作に注力していきます。そして新たに雇ったジュリー・ガーランド、フレッド・アステア、ジーン・ケリー、フランク・シナトラらが次々にヒット作品に出演しました。

戦争で疲弊した国民は、複雑なストーリーの映画に興味を示しませんでした。ミュージカルのような派手で気持ちの良い映画を好んだのです。MGMの成功で、他のスタジオもミュージカル映画に参入してきました。そして競争が激化していきます。ミュージカル映画は、普通の映画と比べるとコストがかかります。音楽制作、練習、ダンスの準備など経費がかかりすぎるのです。MGMは、客が望むことを叶えるべく制作費をつぎ込んでいきました。そして、利益率が悪くなっていったのです。

映画がヒットしても儲からないというビジネススキームには問題があります。そこでMGMは立て直しを図りますがうまくいきませんでした。「雨に唄えば」「バンドワゴン」などヒット作は生まれますが、会社はだんだん経営が傾いていきます。

1954年、劇場チェーンと映画制作会社が同一であってはならないという考えがアメリカ政府に生まれます。この法令措置により、ロウズはMGMの運営から身を引いてしまいました。

MGMは、一気に谷底に放り出されてしまいます。1957年にはMGMを率いてきたメイヤーが死去し、会社は目的すら失ってしまいます。制作費は底をつき、有名俳優達との契約は全て破棄しました。数年前までは、会社の業績は右肩上がりで、大ヒット作を次々とリリースしていたとは思えないほどの急変ぶりでした。

その後のMGMは、次々とオーナーが変わる不遇な時代が続きます。1967年にはカナダの投資家Edgar Bronfman, Sr.、2年後にはネバダの億万長者Kirk KerkorianがMGMを買収します。カーコリアンは、MGMのスタジオと名前を売ってしまいました。MGMはこれで映画スタジオというビジネスから身を引くことになります。1979年、カーコリアンは、自分の運営するホテルにMGMの名をつけ、ホテル業とカジノ経営に集中していくのでした。カーコリアンは、「MGMは映画スタジオではなくホテル会社だ」と宣言します。カーコリアンは映画スタジオのひとつであるユナイテッド・アーティスト社(UA)を買収しますが、MGMとUAの過去の映画ライブラリーはテレビ局に放送権を売ったりしながら細々と映画業務も続けました。

1997年、MGMは、映画ライブラリーを収集しているJohn Klugeに買収されます。そしてMGM映画は20世紀フォックスにより世界配給がはじまります。この頃になるとビデオグラムの市場が形成されており、過去作品はビデオやDVDで発売すると、それなりに利益が生まれることが立証されました。そして、映画会社は、MGMの過去作品に商品価値を見いだします。大手映画スタジオがMGMライブラリーを購入しようと交渉を開始したのです。はじめに名乗りを上げたのはタイムワーナーでした。ワーナーはビデオ販売に力を入れており、ワーナーライブラリー以外にもビデオにする作品を探していました。そこに現れたのがSONYです。ソニーは、ベンチャーキャピタルと共同で、この宝の山を買収にかかりました。この2社が価格をつり上げ、結局ソニーが$5 billionという高額で落札しました。さらにソニーはMGMの負債$2 billionも肩代わりしたのです。

ソニーは日本がバブル時代に、コロンビア・ピクチャーズだけではなくMGMも買収していたことになります。ソニーは、その後、MGMライブラリーで商売をしながら、MGM映画の映画制作にも協力していきました。そしてその後MGMは、ソニーの元を離れ映画配給業に復帰すると宣言しました。

今後は、MGM映画は独自に配給されることになります。しかし、しばらくはソニー・ピクチャーズなどが支援します。また、ライブラリーはまだ複数社が保有しているので、これらをどうMGMに移管するかが問題となっています。とりあえず新007シリーズの海外マーケットはソニー配給となりました。ビデオライブラリーはソニーから20世紀フォックスに移りました。今後は世界的にMGM作品は20世紀フォックスから発売されます(ソニーから発売されているMGM作品は生産終了となります)。

2006年11月、MGMは、トム・クルーズと彼の制作会社クルーズ・ワグナー・プロダクションと契約を結びました。これにより、今後のトム・クルーズ作品はMGMが製作配給することになります。

2006年末現在、MGMのライブラリーはいったい誰が保有しているのでしょう。1986年以前のMGM作品はタイムワーナーが保有しています。「オズの魔法使い」などはワーナーからDVDが発売されています。1986年以降の作品は、MGMが保有しています。

一度は、なくなってしまったかに思えたMGMは、ここに来て一気によみがえってきました。あのライオンが吠えるロゴを頻繁に観ることができる日も近いのではないでしょうか。


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ユニバーサル・スタジオ [映画会社]


Universal Studio

「ジョーズ」「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ジュラシック・パーク」....夏休みや正月休みになると大宣伝と共にやってきたハリウッド大作の数々。そのおおくがユニバーサル映画制作でした。映画館で予告編が終わると地球が回りUNIVERSALの文字が登場します。そしてエンターテイメント映画がはじまりました。
ハリウッドに行くと観光客が訪れるのがディズニーランドとユニバーサル・スタジオです。最近では大阪にもできてその名を一気にメジャーにしました。このテーマパークを運営するのもユニバーサルです。

ユニバーサル・スタジオ(ユニバーサル・ピクチャーズとも呼ばれる)は、ハリウッドのメジャースタジオの1つです。歴史は古く、パラマウントに続き2番目に古い映画スタジオです。今までに数々の映画を製作・配給しています。スタジオに併設したスタジオ・ツアーが発展したテーマパークの運営でも有名です。

<歴史>
ドイツ系ユダヤ人のカール・レムリは、1才の時ウィスコンシン州に移民としてやってきます。彼は洋服店を営みますが、それほど成功せず、店をたたんでシカゴを目指します。シカゴで彼を驚かせたのはニッケルオデオンでした。少額で映像を楽しむ当時大人気だったこのシステムを、レムリは1日中見ていたといわれています。彼は、客の数や営業のシステムなどを見学し、この事業がどのくらい儲かるのかを計算したそうです。レムリは、ニッケルオデオンが儲かると判断し、すぐにこの機材を調達しようと動き出します。しかし新たに店をオープンさせる機材を揃えることができませんでした。

映像に魅せられたレムリは、新たな映写技術を探します。そしてエジソンが開発したMotion Picture Trustに着目します。このシステムは、現在の映画上映に近いシステムでスクリーンにプロジェクターで映像を映写するというものでした。Motion Picture Trustの問題点は、映像制作をエジソンが独占していて、供給される映画は全てエジソンの制作会社が作っているということでした。

そこで、レムリは自ら映画製作に乗り出します。1909年、レムリと友人のアベ・スターン、ジュリアウ・スターンは「ヤンキー・フィルム・カンパニー」を設立しました。エジソンの開発した映写システムを利用しながら、そこで上映される映画は自分たちで作ることにより、利益を上げるビジネスモデルを開発したのです。
この会社は「Independent Moving Picture Company」と名を変え、映画を積極的に製作していきます。これまでエジソンが製作してきた映画は俳優を大切に扱っていませんでした。そこでレムリはスターシステムを確立し俳優をプロモーションしていき、出演料も沢山支払うようにしました。これにより、有名スターが登場する娯楽映画が人気を得ます。

1912年、レムリは自社と5つの小さな映画制作会社を合併し、新会社「Universal Film Manufacturing Company」を設立します。この時点で初めて名前にユニバーサルという単語が入りました。この後、いくつかの映画制作会社を吸収し名前を「Universal Pictures Company, Inc.」とします。

1915年、順調に業績を伸ばしたユニバーサルは、ハリウッドに世界最大級のスタジオをオープンします。ここで、沢山の映画が製作されるようになりました。このスタジオは現在もユニバーサルが運営しています。そして、さらなる拡張が必要になりハリウッドの北にもっと大きなスタジオを建設します。のちにテーマパークが併設される現在のユニバーサルスタジオです。

1928年には、レムリの息子カールが、21才の誕生日プレゼントとしてユニバーサル・スタジオのトップになります。カールの独裁時代の到来です。カールは積極的に事業を拡張します。まずは劇場チェーンを買収し配給業を拡張します。そして映画スタジオの中に音響スタジオや編集スタジオを併設させ、映画のクオリティがあがる総合スタジオを目指しました。カールの仕事は直ぐに製作映画に反映されました。「ショーボート」ではテクニカラーが使われ、「キング オブ ジャズ」は初の全編フルカラー映画でした。映画のカラー化により、観客は増えました。さらにカールは、ユニバーサルの顔となるモンスターシリーズを生み出します。「フランケンシュタイン」「ドラキュラ」「ミイラ男」など数々のモンスター映画を作り、どの作品も世界で大ヒットします。カールの新しい技術の導入とエンターテイメント性の強い映画制作は大成功を収めるのです。

第2次世界大戦中は、映画産業は縮小を迫られます。この逆らえない時勢に対応し、ユニバーサルは低予算映画を製作します。そんな中でもアボット&コステロなどのコメディアンを起用した作品で確実に利益を上げていきました。

戦後、イギリス人のJ.アーサー・ランクという投資家が会社の1/4の権利を取得します。そしてインターナショナル・ピクチャーズという映画会社を吸収させました。インターナショナル・ピクチャーズの社長だったウィリアム・ゴメスは、ユニバーサルの海外配給部門のトップになり、以後、ユニバーサル映画の海外業務を任されます。この海外業務を扱う会社はUIP(Universal International Pictures)となり、現在もユニバーサルの海外業務を請け負っています。

その後、会社は規模が大きくなりすぎ、ヒット作を生み出せなくなってしまいます。苦し紛れの企画「アボット・コステロVSフランケンシュタイン」など珍作を制作しますが、うまくいきませんでした。そんな低迷期に会社は買収されてしまいます。1952年、クラシック音楽のレコードを手がけるデッカ・レコードが、ユニバーサルを運営することになりました。

デッカの運営するユニバーサルは、なかなかうまく機能しませんでした。当時、テレビ放送が始まり、おおくのお客は映画館からテレビにシフトしていきました。さらに巨大な力を持った俳優達との裁判が絶えませんでした。


巨大俳優事務所MCAは、テレビで体力をつけ遂に映画スタジオを買収するほどの資金力を持ってしまいました。そして、まずはユニバーサルの撮影スタジオを買収してしまいました。この買収は実際の撮影スタジオだけで、MCAは映画会社を買収しませんでした。MCAは、テレビ番組制作が拡張することを見据え、テレビ番組撮影用のスタジオが欲しかったのです。1962年になると、MCAは全てのユニバーサル・スタジオを傘下にします。そして社名をMCA/Universal Pictures Inc. としました。MCAは、自社が扱う有名俳優をユニバーサル映画に独占的に出演させます。これによりユニバーサル映画はスターが出演するというメリットを得ます。しかし時代はテレビドラマ中心となり、撮影スタジオのおおくはテレビ用に使用されました。「エアポート」「アメリカン・グラフィティ」「スティング」などヒット作を制作してもテレビスタジオが収益の中心であることに変わりはありませんでした。「E.T.」「ジュラシック・パーク」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などの大ヒットがあっても、その陰には大量の失敗作があり、映画部門の利益はトントンだったそうです。

本社の不振に反し、パラマウントが共同で海外配給を行うということになったUIPは大きくなります。そして1981年MGMが加わります。1997年にはドリームワークスも参加し、UIPは、ハリウッドメジャー4社の作品を世界に配給する巨大会社に発展してしまいました。

1990年にユニバーサルは歴史上大きな転換期を迎えます。
日本がバブル景気のまっただ中、松下電器がユニバーサルを買収してしまいます。松下電器は、ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収することを警戒し、同様の措置をとったのでした。そして、ハードメーカーは、今後ソフトが必要になることを見越した措置でした。この買収劇のメリットは、多額の資金が流入したことです。潤沢な資金で余裕のある会社経営ができるようになりました。しかしそれ以上のデメリットが発生してしまいます。カルチャーギャップです。日本のハードメーカーは、アメリカのソフト制作を理解できず、社内は大混乱に陥ってしまいました。結局、松下とユニバーサルの社員は理解し合うことができず、松下は5年後にカナダの酒会社シーグラムにユニバーサルを売却してしまいました。

シーグラムは、同時期にポリグラムも買収しており、ユニバーサルとポリグラムの作品をビデオ販売する会社、MCA/Universal Home Video Inc.を設立しビデオ業界に参入して成功を収めます。

その後は、業界の再編や技術の変化に対応するため、ユニバーサルは合併を繰り返します。2000年 親会社「シーグラム」とフランスの複合企業「ヴィヴェンディ」、「ヴィヴェンディ」の傘下の有料テレビ会社「カナルプリュス社」の3社で合併し、ビベンディ・ユニヴァーサルが誕生します。2004年には ビベンディ・ユニヴァーサルの娯楽部門「ビベンディ・ユニバーサル・エンターテインメント(ユニバーサル映画が属す)」と放送会社(局)「NBC」が合併し、NBCユニバーサルを設立します。

こうして、ユニバーサルは吸収合併を繰り返してきました。しかし、モンスター映画以降、常に大作を制作して多くの映画ファンに娯楽を与えてきました。ユニバーサルは、スタジオ内にイマジン・エンターテイメント、アンブリン・エンターテイメント、ワーキング・タイトル、スタジオ・カナルなどの制作会社のオフィスを置き、緊密な関係を築いてきました。そしてそれら優秀な制作会社と一緒に名作を量産し続けています。

<テーマパーク:ユニバーサル・スタジオ>
同社名物のスタジオ・ツアーは映画スタジオ設立当時から存在し、サイレント映画時代は撮影シーンも見学できたのですが、トーキー時代に突入すると雑音が入るということで中断され、1964年の復活後はアトラクション・ツアーが中心になりました。
現在、テーマパークとしてのユニバーサル・スタジオは、ハリウッド、フロリダ、大阪の3つが運営されています。ハリウッドには今でもバックロット・ツアーがあり、参加者はトラムという乗り物に乗って、映画撮影スタジオの中を見学できます。VIPツアーに参加すると、実際の撮影に立ち会えたり、歩いてオープンセットの中を見学することができます。
フロリダと大阪は、完全なテーマパークとして建築されています。

<日本のユニバーサル>
日本では、UIPがユニバーサル映画の配給を行っています。しかし、ハリウッドとのコミュニケーションはUIPを通すことになり、円滑に行っているとは思えない意味不明な興行や宣伝が行われています。残念なのは、アメリカでヒットした作品でも興行を行わないケースがおおいことです。実はユニバーサルは名作の宝庫ですが、真剣にローカライズして日本でヒットさせようという宣伝チームが存在していません。宣伝は専ら有料出稿に頼っています。
ビデオは、ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンが販売しています。

<ユニバーサルの作品:My Blog>
ジョーズ

ジュラシック・パーク

アポロ13

宇宙戦争

ミュンヘン


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パラマウント・ピクチャーズ [映画会社]


Paramount Pictures

「レイダース」の冒頭、パラマウント・ピクチャーズのロゴが同じような形の山にフェードします。その山からカメラが移動すると、そこは、秘境の地。「インディ・ジョーンズ」シリーズの冒頭は、必ずパラマウントのロゴからフェードした山から物語が始まりました。映画館でこの映像が始まるとわくわくしたことを思い出します。今回は、山のマークで有名なパラマウント・ピクチャーズについてです。

パラマウント・ピクチャーズは、アメリカのメジャースタジオのひとつです。アメリカで一番歴史のある映画スタジオ、そしてビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発した会社として有名です。山のロゴのまわりの★は会社設立時の所属俳優の数だそうです。現在は、バイアコムという会社の傘下に入っています。

<歴史>
ハンガリー出身のアドルフ・ズーカーは移民労働者として、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、1912年、「フェイマス・プレーヤーズ・フィルム・カンパニー」を設立します。この会社は、当時、低所得者に人気のあったニッケルオデオンを運営する会社でした。
その後、ズーカーは、パートナーのダニエル・フォーマン、チャールズ・フォーマンと中産階級向けの長編映画制作に乗り出すことを考え、事業を拡張し成功を収めます。

同じ時期、ボードビリアンのジェシー・ラスキーは、手袋商のサミュエル・ゴールドフィッシュ(後にゴールドウィンと改名)から資金提供を受け、「ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー」を設立しました。ラスキーが初めて雇った社員は、監督経験のない風変わりな脚本家、セシル・B・デミル。デミルは、1913年ハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作することになり、後に有名監督となります。

1914年、フェイマス・プレイヤーとラスキーの2社は、共同で配給会社「パラマウント・ピクチャーズ」を立ち上げます。そしてユタ州の小さな映画会社をまとめ上げたW.W.ホドキンソンと提携し広域な映画配給網を構築し、アメリカで初めて映画スタジオとして全国的な成功を収めました。D・W・グリフィスが『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)を次々発表し、さらなる成功を収めていきます。

1916年、ズーカーは、フェイマス・プレーヤーズ・フィルム・カンパニー、ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー、パラマウント・ピクチャーズの3社を統合します。そしてできた新会社が「フェイマス・プレーヤーズ=ラスキー」という会社です。この会社は「十戒」などを制作し急成長していきます。デミルが魅力のある作品を監督、W.W.ホドキンソンが配給を統括し、ズーカーは、ビジネスを拡張していきました。

フェイマス・プレーヤーズ=ラスキー社は、2つの革新的なアイデアを確立しました。ひとつは、人気スターの出演作を次々購入・製作していったのです。いわゆるスターシステムを開発したのです。市場を奪われた興業者たちの間では「ズーカーを止めろ!」が合言葉になる程でした。当時の社のスローガンは「Famous Players in Famous Plays」でした。もうひとつは、ブロックブッキングという興行システムを確立したことです。このシステムは現在でも日本では主流の配給・興行スタイルです。全米の劇場をチェーン化して、映画の上映する劇場や期間をスタジオが支配するのです。これにより安定的な映画興行が行われるようになりました。このブロックブッキングは、1949年、独禁法違反となりパラマウントは興行部門を分離することになります。

1927年 社名をパラマウントに改称、ズーカー率いる同社は、全米2000スクリーン、2つの制作会社、CBSラジオの50%の株式を保有する巨大メディアに成長していました。そして、次々と大きな劇場チェーンを買収し、傘下におさめていったのでした。

この頃になると、設立当初のパートナーは去り、ズーカーだけが社を取り仕切るようになっていきました。あまりの豪腕さに仲間がついて行けなくなってきたのです。そして、そんなタイミングで大恐慌が起こります。会社の株価をつり上げ、その価値で次々と企業を買収を行っていた経営は一気に破綻します。結局1933年 財政難で破産宣告をされてしまいました。

パラマウントのアニメ部門は「ポパイ」と「ベティー・ブープ」の2作がヒットし、健全経営を続けてきました。しかしこの2つのキャラクターの権利は社の経営が傾くと抵当に入れられ、他社に渡ってしまいました。

1935年 再建が行われ、新生パラマウント・ピクチャーズは、20年という長い期間を得て復活します。1940年代に会社更生法の解除をきっかけに、パラマウントは映画制作を開始します。しかし、アメリカ政府は独禁法を盾にパラマウントの経営を監視し、ついにこの対立は法廷に持ち込まれます。そして長い法廷闘争の末1945年に制作部門をパラマウント・ピクチャーズ、工業部門をユナイテッド・パラマウント・ピクチャーズに分離することが決まりました。

会社を2つに分離させられるという痛手を負った同社は、積極的にテレビ業界に進出します。そして西海岸に3つのテレビ局を開局します。しかし、これも独禁法違反といことで政府に分離させられてしまいました。

その後のパラマウントは、どんどん傾いていきます。映画産業自体も将来がないとされ、おおくの作家や俳優は離れていきました。そして会社の価値もどんどん下がっていったのです。名誉職に居座っていたズーカーは、それでも発言権を持ち、会社が反映する夢を見続けていました。


1966年、遂にパラマウントは価値を失い、Gulf and Westernというコングロマリットに身売りされてしまいました。ここで長い歴史を誇ったズーカーのパラマウントは一度歴史を停止してしまいます。

もう復活はないと思われた、Gulf and Western傘下のパラマウントは「ハリウッドをやっつけろ」で有名なロバート・エバンスをプロデューサーとして抜擢します。エバンスは、「ある愛の歌」「ローズマリーの赤ちゃん」「ゴッドファーザー」など大ヒット作を連発します。この一連のヒット作のおかげでパラマウントは、ハリウッドの大メジャースタジオとして復活しました。映画ビジネスというのはこのように誰も予想がつかないのです。この勢いに乗り、Desilu television studioを買収したパラマウントは、テレビドラマでも成功を収めていきます。「スタートレック」と「ミッション・インポッシブル」シリーズです。このテレビ制作会社はコメディ番組の制作でも収益を上げ続けました。エバンスが去った後にはジェフリー・カッツエンバーグやドン・シンプソンら優秀なプロデューサーが引き継ぎ「サタデーナイト・フィーバー」や「グリース」など音楽映画をヒットさせていきます。

80年代にはいると、「フラッシュダンス」「13日の金曜日」シリーズ、「インディ・ジョーンズ」シリーズ、「ビバリーヒルズ・コップ」シリーズと大ヒット作品が次々に制作され興行収入のトップを独占する時代が続きます。「アトランティック・シティ」や「フォレスト・ガンプ」のような名作も制作し興行と賞の両方を得ていくのでした。テレビ番組もうまく推移します。エディ・マーフィーは大人気になり「スタートレック」も高視聴率をとり続けました。

この高利益の会社は世間でも注目を集め、コングロマリットのバイアコムはパラマウント買収を画策します。業績の良いパラマウントは強気に出ますが、結局$10 billionという高値で1994年バイアコムが傘下におさめて現在に至ります。

<日本のパラマウント・ピクチャーズ>
日本では、パラマウント映画はUIPが配給を行っています。この会社はパラマウントとユニバーサルが共同で設立したアメリカ以外のテリトリーの配給を扱う会社です。本社はイギリスにあります。よってパラマウントの作品は、イギリスを通って日本にやってくるのです。かつてはビデオもUIPが扱っていましたが、現在はパラマウント・ホームエンターテイメント・ジャパンが設立され、同社が扱っています。

興行に関しては、アメリカから遠く離れているので、世界的なヒット作でも日本では興行的に失敗してしまうことがおおい会社です。

<パラマウントの作品 : My Blog>
レイダース

インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説

インディ・ジョーンズ 最後の聖戦

フォレスト・ガンプ 一期一会

エリザベスタウン


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ワーナーブラザース [映画会社]


Warner Bros. Studio

ワーナーブラザース・スタジオは、世界最大級のエンターテイメント会社です。傘下には、映画部門のワーナーブラザーズ・ピクチャーズ、テレビ局運営し番組を製作するワーナーブラザーズ・テレビジョン、アニメを製作するワーナーブラザーズ・アニメーション、DVDなどパッケージを制作・販売するワーナーブラザーズ・ホームビデオ、そのほかDCコミックスなどを有しています。

現在は、タイム社と合併したとき作ったホールディング会社であるタイム・ワーナーの一部門となっています。本社はアメリカ、カリフォルニア州バーバンクにあります。

<歴史>
ハリー(1881–1958)、アルバート(1883–1967)、サム(1887–1927)、ジャック(1892–1978)のワーナー4兄弟はポーランド移民労働者で、19世紀末、全部で8人の兄弟姉妹が貧困の中を逞しく生きていました。父の経営する靴修理屋を手伝いながら、それぞれの趣味と才能を伸ばし長兄ハリーは店を拡大、ジャックは歌手として修行に励み、サムは職業を転々とします。

サムは、映画の創生時、その魅力に取り憑かれて映写技師となります。次いで、彼は兄弟と組みジャックのパフォーマンス付きで興行業を開始。1903年にはペンシルバニアとオハイオの炭坑町で映画上映を始めました。その後、ペンシルバニア州ニューキャッスルで劇場をオープンします。この劇場は現在も運営されています。その後、配給業に進出して4つの州の映画館にフィルムを供給しました。収益を上げるものの、トラスト(MPPC)の圧力によって配給網を絶たれ、一度は業界から手を引いてしまったこともあります。

しかし、映画を作るという夢を捨てきれなかったサムは、再び兄弟を説得して1918年にハリウッドのサンセット・ブルバードに映画スタジオを構え、映画制作を始めます。そして1923年ニューヨークに配給会社を設立しました。映画自体は晴れの多いハリウッドで作り、映画の投資や全米配給は、ビジネスの中心地ニューヨークにオフィスを置いたのです。1926年には、初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』を発表し公開します。この時点でワーナーブラザーズは、映画を制作し配給するという2つの業務を実際に行うようになります。

兄弟で助け合ってなんとか経営が順調になった1930年代、経済恐慌のあおりを受けて経営難に陥いってしまいます。しかし当時の話題だった「ギャング」をテーマに映画を制作し、このヒットで困難を乗り切りました。映画という仕事は、とても魅力があり、おおくの人々が産業に参加してきましたが、誰もが途中で資金を使い果たしてしまう時代が続きました。1956年 、ワーナーブラザーズも他社と同じように資金が足りなくなってしまいます。そこで、やむを得ず1950年代以前の作品をMGMに売却するという苦しい決断を下しました。

その後、なんとか会社は運営を続けますが、また資金が底をつき、遂に社は身売りされてしまうのでした。ワーナーは、1969年 レンタカー会社「キーニー・ナショナル・サービス」の傘下となってしまいました。キーニーは、もともと葬儀屋でしたが、駐車場やオフィスの清掃会社など様々な会社を買収して大きくなってきました。キーニーが買収した会社の中に、あるタレント事務所がありました。ここを任せていたテッド・アシュレイという人物がワーナー買収を成功させ、ワーナー・ブラザースの社長になりました。アシュレイは、有名人が会社を支えると信じ、おおくの若い俳優と独占契約を結びます。その中には、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ジョン・ウェインなどが含まれていました。1980年代は、同じく独占契約を結んだクリント・イーストウッドがワーナーブラザーズを支えます。会社は順調に推移してきたので、アシュレイは、駐車場や葬儀業といった小さな規模のビジネスを売却し、新たにアタリ社などのビデオゲーム会社を買収したり、Six Flagsの遊園地業をはじめ、エンターテイメント業に軸足を移していきました。そして社名をWarner Communicationsとします。

1980年代、現在の日本のようにアメリカではM&Aブームが起こりました。1989年 親会社「Warner Communications」は、巨大出版社「タイム」と合併し、タイム・ワーナーを設立することに合意します。この合併では、すべてのワーナー傘下の会社が合併したわけではありませんでした。合併したのは収益の良い映画部門と音楽部門で、遊園地業などは売却されてしまいました。この合併は、巨大な資本を有する世界最大のエンターテイメント会社として脚光を浴びました。以後は、文字(出版)と映像(映画)の2つの路線をうまく絡めながらメディアミックスでヒット作を連発していきました。

1995年には、1950代年以前のワーナー、1985年以前のMGM、RKOの主なフィルム・ライブラリーとCNNを所有していたターナー・コミュニケーションが会社の傘下に入ります。映画業界で孤立主義を貫いてきたターナーが、ワーナーと手を結んだことは、当時大ニュースとなりました。ターナーとの提携は、過去のワーナー作品を取り戻したという意味よりもCNNというテレビ局を手にしたことのほうが大きな成果でした。以後、タイム・ワーナーはテレビ局を設立しテレビというメディアにも進出していきます。

この頃になると、出版、テレビ、ラジオ、映画とあらゆるメディアを傘下に持つタイム・ワーナーはさらに勢力を強めます。そして、新たにインターネットという新しいメディアが出現して、社はこの新メディアとどう向き合うかという新たな課題を突きつけられました。

ちょうどその頃、急成長したインターネットのプロバイダー最大手のAOLが、タイム・ワーナーを買収するという噂が流れ、2000年親会社がAOLと合併してしまいます。この事件では、企業価値の小さい新興のAOLが巨大メディアで歴史のあるタイム・ワーナーを買い取ってしまったという驚くべき事態が実際に起こってしまいました。この後は、皆さんご存じのようにIT関連企業が、世界中の堅実経営の会社を買収するという戦国時代に突入していきました。会社は、AOL TimeWarnerという社名になりましたが、結局既存のメディアにITの名前はあわないこと、そしてその後AOLの力が急速に衰えてしまったことから、あっという間に社名はTimeWarnerに戻されてしまいました。

2000年以降、ワーナーブラザーズ・スタジオは、以下のような比較的小さな制作会社と契約して映画をヒットさせてきました。
アンブリン・エンターテイメント(非独占。スピルバーグの制作会社)
モーガン・クリーク・プロダクション(近年はユニバーサルとの仕事がおおい)
リージェンシー(最近は20世紀フォックスとの仕事がおおい)
ビレッジ・ロードショー
レジェンダリー・ピクチャーズ
シルバー・ピクチャーズ(ジョエル・シルバーの制作会社)
ラッド・カンパニー
ゲフィン・フィルム

<スタジオ>
バーバンクには、広大な敷地のスタジオが広がっていて、観光客もスタジオツアーに参加すれば中に入れます。スタジオはいくつかのセクションに分かれています。入り口付近は、オフィスになっておりスタジオの事務系のスタッフが常駐しています。このあたりは、スパニッシュ・コロニアル風のデザインで統一された低層の建物が並んでいます。そしてシルバー・ピクチャーズやモーガン・クリークなどの制作会社のオフィスもあります。
オフィスビル群の奥には、撮影に関わるスタッフが常駐するビルがあります。大道具、小道具の製作工場や倉庫などが見えます。その中ではスタッフが様々なデザインの美術を作っています。
その奥には広大なオープンセットとスタジオが並んでいます。オープンセットは、表面を作り替えることで、ある時はNY。ある時はLAになります。私が訪れたときは「ER」の雪のセットが建てられていました。直ぐ側には「ブレードランナー」のオープニングに出てきた未来のLAのセットと「マイノリティ・レポート」の街が残っていました。
スタジオは広大で歩いて回ることはできません。スタッフは電気自動車に乗って中を移動していました。俳優はセットの隣に置かれたトレーラーで休んでいます。大きな映画になるとスタジオの周りには沢山のトレーラーが並びます。「オーシャンズ11」など、有名俳優が出演する映画の撮影があるときは、トレーラーの数に驚かされるでしょう。

<ワーナー・エンターテイメント・ジャパン>
日本には、ワーナーブラザース直轄の配給会社があります。基本的に、日本では、ワーナー作品はワーナー・エンターテイメント・ジャパンが配給と宣伝を行います。そしてビデオはワーナー・ホームビデオの日本支社が制作・販売します。映画の宣伝ビジュアルは全てアメリカ本社の意向で進められるので、日本支社に与えられている権限は限られたものになります。勿論DVDも同じで、価格設定やジャケットデザインなどは本社の意向が大きく影響しています。

「ハリー・ポッター」シリーズ、「スーパーマン」シリーズ、「マトリクス」シリーズ、「リーサル・ウェポン」シリーズ、「バットマン」シリーズ、クリント・イーストウッド作品、ティム・バートン作品、ルーニー・チューンズのアニメなどおおくの作品を配給するワーナーブラザーズ。今後もエンターテイメント色の強い作品を沢山リリースしてくるでしょう。

<ワーナーの作品 : My Blog>
グレムリン

シリアナ

ミリオン ダラー ベイビー

チャーリーとチョコレート工場

バットマン ビギンズ


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ピクサー  3/3 [映画会社]

Pixar Animation Studios

ディズニーとピクサーは、劇場映画の制作について、劇場用アニメ5本という契約をしたといわれています。「ルクソーJr.」でCGアニメの未来を開いたピクサーにディズニーがアプローチしたのは、ある種当然だったのではないでしょうか。当時ディズニーは、伝統的なディズニーアニメがヒットせず苦しんでいました。そこで、ピクサーに目をつけたのです。

この2社が、うまく行かなくなったのは、「トイストーリー2」の製作中です。当初「トイストーリー2」は、ビデオ販売用に作られていました。しかし、映画のクオリティが良いので劇場用映画として、アップグレードされました。ピクサーは、この作品を、5本のうちの2本目という位置づけで考えていました。劇場で公開される映画5本という契約の1本としたのです。しかしディズニーは、この作品をカウントしなかったのです。結果として劇場公開されることになったおですが、元々は、ビデオ作品なので、契約の5本には含めないということです。さらに「トイストーリー2」は続編なので、そもそも「トイストーリー」に含まれるとしたのです。

2社は、2004年に契約を改定します。この頃は、既にピクサーはハリウッドでも優良な制作会社として高利益をあげていました。ディズニーはピクサーを手放したくありませんでした。新しい契約では、今後、ピクサー映画はディズニーを通して配給されることになりますが、クリエイティビティには口を出させないということになりました。要は「トイストーリー」より後に制作される作品は、全てピクサーが独自に企画し独自に制作することができるという画期的な契約です。さらに、制作費もピクサーが自分たちで拠出します。ディズニーは制作出資もできないのです。

これは、ピクサーにとって素晴らしい契約です。ハリウッドでは、メジャースタジオが映画に対し、出資を行い、勿論口も出します。このため、制作者は、自分の意図とはあわない編集や宣伝を強いられます。そして映画がヒットすると、利益は当然出資者に還元されてしまうのです。この呪縛から解き放たれたのは、かなりレアなケースです。このような有利な契約はハリウッドでは通常認められず、今でもクリエイティブフリーダムを勝ち取っているのは、ルーカスフィルムとピクサーの2社だけです。

「トイストーリー」より後の作品は、利益がでたら100%ピクサーに入ります。ディズニーは配給手数料の10〜15%を手にする事しかできないのです。それでもディズニーはピクサー作品が欲しかったのです。

一旦、拾集したかのようにみえたディズニーとピクサーの関係ですが、2004年後半には、不協和音が聞こえてきます。ディズニーのCEOだったマイケル・アイズナーとピクサーのオーナーであるスティーブ・ジョブスの不仲説です。アイズナーは、かなり横暴な経営者だったようで、自分の好き勝手にディズ二ーを変えてしまいました。それまでウォルト・ディズニーの末裔が守ってきた夢の国「ディズニー」は、アイズナーによってただの映画会社に成り下がってしまいました。アイズナーが好んだアメリカ以外が舞台のアニメは不評でした。映画がヒットしなくなると、「ピーターパン」などの名作の続編を作り始めます。これら続編はつまらなく退屈なものばかりでした。当然、ディズニーは会社経営がおかしくなってしまいました。一方、Appleに復帰し、iMACやiPODで大成功を収めたジョブスは、ピクサーをラセターにまかせ、彼は会社の経営のみに邁進していました。一時期は荒れていたピクサーは、すっかり健全経営をしていたのです。この2人、そりが合うはずがなく、ジョブスは、遂にピクサーはディズニー以外のパートナーを捜していると宣言してしまいました。

ディズニー社内では、大騒ぎとなり、役員たちが事態を収拾しようと試みましたが、アイズナーは、相変わらず身勝手な判断を断行し、親ピクサー派だった、ロイ・ディズニーは遂に辞表を提出してしまいます。これには、アイズナー以外の全社員、そしてディズニーファンから怒りの声が上がります。そして遂にアイズナーはディズニーのトップから引きずりおろされてしまうのでした。

2006年1月24日 ディズニーは、ピクサーを$7.4 billion という巨額で買収することを発表します。ピクサーはディズニーが100%所有する子会社になるということです。このニュースに世の中は驚きました。アイズナーなきディズニーは、ピクサーと関係を修復したがっていました。ロイは、勿論ディズニーに戻ってきました。ジョブスは、巨額な利益を手に入れピクサーを売り払ってしまったのか?今後のピクサーはどうなってしまうのか!

実は、この結末は実に用意周到に計画されたものだったのです。新生ディズニーのクリエイティブのトップに就任したのはジョン・ラセターです。今後は、彼はCG、セル問わずあらゆるディズニーアニメを統括します。これにより、ディズニーにいるアニメスタッフはピクサーと同様、素晴らしい仕事環境を手にする事ができました。分けわからないアニメ企画を手伝わされる事もなくなりました。ピクサーの50.1%の株式を所有していたジョブスは、株式交換によりディズニーの約7%の株を取得し、筆頭株主となり、ディズニーの役員に就任します。ロイ・ディズニーは、アイズナーのいたCEOのポジションにつきました。

ディズニーは、ピクサーという世界でトップクラスのクリエイティブ集団を傘下に今後、かつてウォルト・ディズニーが夢見ていた「ディズニー」を復興するでしょう。ラセターは、エンターテイメント部門のトップにも任命されたので、これから世界中のディズニーランドには彼が考えた新しいアトラクションが登場してくるはずです。

ディズニーは、アップルとくむ事により、iTUNESで作品を販売したりiPODやDVDと連携した宣伝や販売戦略を練ってくるはずです。アイズナー以外の全ての関係者とファンが全てHAPPYになるこの結末に私は感心させられました。
今後のディズニーがどう生まれ変わるのか、とても楽しみです。


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ピクサー  2/3 [映画会社]

Pixar Animation Studios

ピクサー第2回目は、実際のスタジオについてレポートします。

ピクサーは、ルーカスフィルムやアップルと同じサンフランシスコに本社を構えています。これにはいくつか理由があります。もともとルーカスフィルムの1部門だったこと、そして、アップルのスティーブ・ジョブスが会社を所有している事から、ピクサーはその名前がつく前からサンフランシスコに居続けています。元々はルーカスフィルムのお膝元、マリン郡の小さなビルの1室で細々と経営されていましたが、「トイストーリー」の大ヒットにより、借入金を全て返済し、さらに現在のエミリービルに社屋を構えました。

デザインは、世界中のアップルストアをデザインしているチームによるものです。建物は全て人の手により組み立てられました。アニメは人が作る芸術です。だから、アニメを作るクリエイターが活躍する建物は、重機ではなく人が立てるべきだという信念からきています。実際に、金属の梁は人の手によりくみ上げられ、人の手によりボルトが締められています。このあたり、いかにもピクサーらしいお話です。

入り口を入ると、大きなホールになっています。この土地はかつて野球場だったそうで、今でもホールの真ん中にベースが埋め込まれています。かつては、ここがホームベースだったそうです。このホールはビルの入り口のほかにいくつかの設備をかねています。ひとつは受付、そして社員の郵便箱や各部署への通路が伸びています。ホールの一角には大きなカフェがあります。このカフェの名前はルクソーJr.。そうピクサーが初めて作った短編CGアニメのタイトルです。このJr.は、ピクサーのマークにもなっていますね。ここの食事はとても美味しいです。これには理由があります。詳しくは後ほど。

このホールには、スタッフがスケボーやキックボードで動き回っていますし、昼休みにはバスケをしたりしています。とても自由な社風が見て取れます。

ホールの奥には2つの試写室があります。試写室には、上映前に暗くなると天井にきれいな星空が浮かび上がるシステムが組み込まれています。実はこの星空は、ピクサーから見える星空と全く同じだそうです。映画を上映する前のにくい演出です。

ホールの左手には、マシーンルームが並んでいます。勿論、PCは全てMacです。そして事務系のスタッフがオフィスを構えています。

ホールの右手は、クリエイター達のオフィスです。ここがピクサーの一番の見どころです。というのも、スタッフは一人5m*5mほどの面積を与えられます。そしていくらかの資金をもらうそうです。後は、各自がそこを好きなようにオフィスにしています。ある人は、レンガ風の小屋を建て、その中で作業をしています。ある人はガラス張りの近代的なオフィス、ある人は、バリのコテージ風といったように、とても個性が出ています。この小さな家の集合体がかなりあり、このスペースに入ると、ちょっとした町のようになっています。町の中心にはバーカウンターがあり、17時を過ぎると、スタッフが掛け持ちでバーテンダーになるそうです。楽器も沢山置いてあり、夕方からスタッフバンドが演奏をはじめます。このホール右手は、世界中のクリエイターが最も望む自由で楽しい職場となっているのです。

ビルの外には広大な庭があり、小さな建物が1棟建っています。この建物はピクサー・ユニバーシティです。社員は誰もが週2時間、ここで勉強をします。これは就業時間に含まれます。何を勉強するかというと、パントマイムやアニメ制作、映画作り、演技などです。ここには、クリエイターだけでなく、セキュリティのおじさんも、コックさんも、掃除のおばさんも出席するのです。アニメを作るには、演技の方法や手書きアニメの手法を知っていた方が良い作品が作れます。だから、皆がコンピュータの使い方より、アナログの勉強をしています。そして直接アニメ制作に関係のないスタッフもここで同じ勉強をすることにより、社員の仕事を知る事ができます。こうすることにより、社員皆が顔を覚えます。すると、入り口ゲートでは、セキュリティは「○○さん、おはよう!」とか「○○さん、お疲れさま」という会話がなされ、コックさんは、疲れているスタッフにフルーツをおまけしたり、肉をおおめによそったりできるのです。仕事による差はなくなり、皆が家族のようになるのです。この社員一丸となったコミュニケーションが、実は作品に反映されているんですね。

全スタッフが顔馴染みで、フレンドリー、そして忙しいときは助け合い、良い作品を生み出す。そして、そこにお金が付いてくるという理想的な循環が、ここピクサーでは行われているのです。

次回は、このピクサーが、ディズニーと戦い、買収されてしまうまでについてお話しします。


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ピクサー  1/3 [映画会社]

Pixar Animation Studios

今回は、映画スタジオ・シリーズ第2弾。CGアニメで有名な「ピクサー」です。
このピクサースタジオを3回に分けてリポートします。

まず、第一回は、ピクサー苦難の歴史についてです。既に書いてきましたが、このスタジオは、かつて「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスが所有していました。エドウィン・キャトウィルというニューヨーク工科大の学生が研究していたコンピュータを使った映像制作技術に目をつけたルーカスが1979年にキャトウィルを招きルーカスフィルム内にこの工房を作りました。

当時はPCで線を書くのすら大変だったのですが、キャトウィル達は地道にハードとソフトを開発し、80年代に入ると遂に実用化できるまでCGIを完成させます。今では個人レベルでCG制作ソフトを買えるようになりましたが、当時は数十億円という投資をしてやっと数秒のCGを作るのがやっとでした。ルーカスフィルムは、このCG技術を「ヤング・インディ・ジョーンズ」で利用し成功を収めていきます。しかし、映画をCGで作るにはまだ技術力がありませんでした。スターウォーズの「ジェダイの帰還」の制作が終わる頃には、ルーカスは次回作でCGを使う事を宣言していました。しかしその頃、この言葉を信じる人は誰もいませんでした。CG技術は未来の夢だったのです。

丁度、その頃、ルーカスは離婚を経験します。アメリカでは、離婚の際、相手側にそれなりの慰謝料を支払います。「スターウォーズ」で成功したルーカスには莫大な財産が入ってきており、今まで築いてきたルーカスフィルムのいくつかの部門を売って妻に慰謝料を支払うしか方法がありませんでした。そこで、ルーカスは泣く泣く、このCGアニメ部門を手放す事にします。この選択は、仕方がないことでした。「ジェダイの帰還」の制作が終わり、ルーカスフィルムの各部門は成功していました。ILMは、世界最大のSFX会社として成長を続けていました。スカイウォーカーサウンドは、素晴らしい音源を持ち、世界の映画音響を変えました。THXは、世界中の映画館をリノベーションしました。これらの部門は映画界と切り離す事のできない重要な使命を持っていたのです。

赤字経営で、いつ黒字になるのかわからない部門は、CG部門しかなく、ルーカスから売りに出されます。これを買ったのが、アップル・コンピュータを追い出されたスティーブ・ジョブスです。彼は、自分で雇い入れたジョン・スカリーから仕事をおわれ、退職金を受け取り、次の夢を探していた時でした。ジョブスは、ちゃんと根切り、ルーカスが提示した額よりかなり安いUS$5 millionで買い取りました。

このCG部門を、ジョブスはピクサーと名付けます。この頃は、ディズニーから優秀なアニメーター、ジョン・ラセターが加わり、CGアニメの未来が実現化しつつあったのです。しかし、ジョブスはピクサーをアップルに変わる新しいPC会社にするつもりでした。というのも、ピクサーはCGアニメを作るためにパワーのあるコンピューターと、CGアニメを作るためのソフトを開発していたからです。アニメに興味のないジョブスには、この会社は、ただのPC会社にしか見えなかったのです。

ジョブスは、すぐに営業部門を作り、積極的にこの「アニメを作る事しかできない」PCとソフトを売り歩きました。それもかなり高価なPCです。営業マンの優秀なくどき文句で、いくつかの国家機関がこのPCを購入してくれましたが、当然、世界規模で売れる訳はありません。この事業はすぐに立ち行かなくなってしまいます。

営業成績が芳しくなく、開発費は膨大で、ピクサーは明らかに赤字企業でした。せっかく沢山貰ったアップルからの退職金は、どんどん減っていき、生涯贅沢な暮らしができると思っていたジョブスは焦り始めます。そこで、ジョブスは、ピクサーのリストラをはじめます。まずは、意味のないCGアニメを作っているスタッフの解雇を提案します。スタッフは慌てます。この会社はCGアニメを作る事を夢見て集まった人たちが支えていました。解雇者リストには、後に「トイストーリー」を監督するラセターも含まれていました。キャトウィルは、必死でジョブスをなだめる毎日が続きました。

丁度時を同じくして、長い長い研究開発が実り、遂にピクサーは、アニメを完成させます。それはライトが動く短いCGアニメでした。ラセターが中心となって開発してきた機材が完成し、同時に短編アニメを作れるようになったのです。その短編がいきなりアカデミー賞などで短編賞を受賞し始めます。そして、あのディズニーから長編アニメの制作依頼が来るのです。

ディズニーからアニメ制作のオファーが来るなんて思っても見なかったジョブスは、180度考えを変え、すぐに契約を結び映画の製作に入ります。この後、映画なんて作った事のないジョブスは、相変わらず妨害をしていくのですが、キャトウィル達の懸命な説得工作により、ジョン・ラセターが中心となり素晴らしい長編CGアニメが完成します。

この「トイストーリー」、CGは勿論素晴らしいのですが、それよりもストーリーがしっかりしていて、アニメだろうが実写だろうが十分ヒットする要素を盛り込んでいました。そして素晴らしい声優陣、素晴らしい音楽と相まり、世界中で大ヒットしました。

「トイストーリー」のヒットパーティに登壇したのは、スティーブ・ジョブスだったというのは、後の笑い話になっています。

次回は、関係者以外入れないピクサースタジオの内部を紹介します。

<ピクサーのDVDを購入>
トイ・ストーリー

ファインディング・ニモ

トイ・ストーリー2

モンスターズ・インク

Mr.インクレディブル

バグズ・ライフ

ディズニー・ピクサー DVDコレクション


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スカイウォーカーランチ 2/2 [映画会社]


Skywalker Ranch The Main House

  皆さんのご希望に従い、スカイウォーカーランチからのリポート第2弾です。
  前回お伝えできなかった面白ネタです。

  スカイウォーカーランチは、住所が秘密なのは前回お伝えしましたが、理由はいくつかあります。まず「スターウォーズ」の制作中にストーリーや映像が流出するのを防ぐため、入場を制限します。強烈なスターウォーズ・ファンは、なんとしてでも最新情報を入手したくて様々な手段をとります。ルーカスフィルム自体からの情報流出を最大限食い止めるため、できるだけ場所を知らせない措置がとられるのです。別の理由は、神秘性でしょう。誰もが簡単にアクセスする場所だと、やはり神秘性がなくなります。ルーカスは、自分の会社をある意味神秘的な物としたかったのでしょう。この両方のファクターを象徴する有名な話があります。ロナルド・レーガンが大統領のとき、ルーカスフィルムを見学したいと希望しました。しかし、スターウォーズ制作期間と重なっていたため、これを認めなかったのです。この事件は当時かなり報道され、逆にスカイウォーカーランチの神秘性が固まりました。

  レストランは、2つありランチだけ営業しています。ひとつはメインハウス1階で、ここでは、プリフィックス料理が提供されます。スタッフは、お金を払い大きなプレートをもってラインを移動します。そしてサラダ、スープ、メインディッシュなどを好きな量だけ貰います。メインディッシュはアメリカ料理で、ミートローフや魚のグリルなどが供されます。飲み物は、基本無料で、コーヒーやコーラなどがふんだんに用意されています。
  もうひとつは、厚生施設棟にあるカフェテリア形式のレストランです。こちらでは、自分で好きなように食べ物をオーダーできます。毎日5〜6種類の食事が用意されています。我々日本人が行くと、ここのシェフは日本風料理を作ってくれます。蕎麦入りサラダや味噌汁など、がんばってくれるのですが味はまあまあでした。
  スカイウォーカーランチでは、朝食と夕食を摂ることはできません。ユニオンの協定があるため、仕事は9時ー19時と決まっています。よって、ここで昼食以外は必要ないのです。我々のように、遠方からスカイウォーカーランチにやってきてThe Innに宿泊している人はどうするのでしょう。この宿泊棟には、大きなキッチンがあり、ここで調理ができます。朝食は、The Innに用意されます。毎朝、コーヒーとオレンジジュース、そしてベーグルやマフィンなどがキッチンに置かれています。冷蔵庫の中の卵でオムレツを作ったりもできます。夜は皆、自炊しています。「踊る大捜査線」チームは、よくうどんを茹でていました。「ローレライ」チームは、バーベキューをやったり、焼きそばを鉄板で焼いていました。このように好きなように料理しています。各国のスタッフが、このキッチンで文化交流をする光景を見ることもできます。

  スカイウォーカーランチには、小さなショップがあり、来訪者の人気の的です。ここでしか手に入らない数々のグッズはとても魅力的で、「スターウォーズ」世代は、予想していなかった出費をすることになります。最近ではstarwars.comでも売られるようになった「LUCASFILM」ロゴ入りTシャツや、スターウィーズのプロップなどはもの凄い売れ行きです。そして、これら商品は、数ヶ月おきに入れ替えられるのです。よって、数ヶ月ぶりに行くとかなり商品ラインナップが変わっていて、またまた浪費することになります。私が今まで購入して個人的に気に入っているグッズは以下のようなものがあります。(既にデッドストック)
 <ライトセーバー型キーホルダー>
  長さは5cmくらいの小型のライトセーバーの形をしたキーホルダーです。ちゃんとサーベル部分が光るのです。それもジェダイ色、シス色とそろっていました。
 <ジャバ・ザ・ハット Tシャツ>
これは、もともとILMのグッズです。ILMには、ジャバ・ザ・ハットというコーヒーショップがあります。アメリカではコーヒーのことをJavaと呼びます。スターウォーズのキャラクターとコーヒーをかけているのです。このショップには可愛いマークがあります。あのジャバ・ザ・ハットがコーヒーカップを持っているマークです。これがとても可愛く人気があるのでTシャツが作られました。腕には Industrial Latte and Magic というロゴが付いていました。これも会社の名前 (Industrial Light and Magic) をわざと変えて遊んでいます。
 <スタッフ用Tシャッツ>
  ルーカスフィルムが制作する映画がある場合は、作品のスタッフTシャツが作られ、このショップに並びます。これはかなり数が少ないので、タイミングが勝負です。私はEp1のダースベーダーTシャツとEp3のウーキーTシャツを手に入れました。

<珍客>
  このような、ファンにはたまらない場所には、かならず珍客が現れます。時々、自分の飛行機で空からランチ内を伺うファンがいるそうで、うるさくて困るとスタッフが嘆いていました。今まで一番奥まで侵入したファンは、ルーカスのいるメインハウスの入り口をノックした人だそうです。ランチにはわかりにくい入口、セキュリティ、沢山の監視カメラがあるのにも関わらず、歩いて数十分かかる一番奥の建物にたどり着いたのはなかなか凄いファンですね。

<動物たち>
  ランチ内には、馬や牛が沢山飼われているのですが、野生の鹿や七面鳥がたくさん歩いています。ちょっと驚くのですが、摺れていなくて、人が近づいても逃げません。まだ見てはいないのですが、スカンクもいるようです。時々あの"におい"はします。

<スタッフ>
  スタッフは、皆とてもフレンドリーで仕事ができます。仕事開始前と後は一緒に食事をしたりパーティをしたりするのは勿論、プライベートでも助け合う仲になります。とにかく性格がいいのです。きっと採用する際には、仕事の才能だけでなく人柄も見ているのでしょう。一緒に仕事していて気持ちがいいのは、とても重要な要素だと改めて感じました。また、いたるところにエスプレッソメーカーやお菓子類が置かれてあるのも気持ちがいいです。私のお気に入りはコッポラがスカイウォーカーランチに贈った大きなエスプレッソメーカーです。毎日5杯くらいカプチーノを飲んでいます。
  


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スカイウォーカーランチ 1/2 [映画会社]


Skywalker Ranch Tech Building

  今回は、作品を離れて映画が作られるスタジオを紹介します。

  今、私が仕事で滞在しているのが、ルーカスフィルムの本社があるスカイウォーカーランチです。この名前には2つの意味が込められています。1つは、ジョージ・ルーカスが、現在の地位を得るに至った「スターウォーズ」の主人公の名前を付けていること。もうひとつは、ここは「スタジオ」という名称でなく「ランチ(農場)」だということです。

  スカイウォーカーランチの場所は秘密とされています。そして内部の撮影は制限されているため、どこにあるのか、そしてどんな施設なのかはベールに包まれています。実は、スカイウォーカーランチはサンフランシスコから車で1時間程北に行った山の中にあり、外からはどう見ても農場にしか見えません。我々も住所を知らなければ、通り過ぎてしまう程地味なゲートが道路沿いにあるだけなのです。

<ゲート>
  入り口からは内部を伺うことはできず、ただ古い木でできたゲートがあるだけです。車でこのゲートに近づくと、どこからか声がします。よく見ると、木の脇の石の中にマイクとモニターが仕込まれていて、ゲートの周囲にある木々には何台ものカメラが据え付けられているのです。普通に通りかかったら、ただの鄙びた農場の入り口にしか見えませんが、実はハイテクを駆使したセキュリティシステムで守られていたのです。本人の認証が終わると、木のゲートが自動的に開きます。当然自分で開けるのかと思ったら、これも機械仕掛けになっているのでした。

<警備&消防>
ゲートを入ると暫く山道が続き、白い小さなセキュリティオフィスが見えてきます。このオフィスにはルーカスフィルム所属の警備員が常駐しており、さらに厳しいチェックを受けます。この警備員の服装がなかなかかっこいいのです。濃紺の警備員(ちょっと山岳レンジャー風)を来ているのですが、腕にはX Wingがデザインされたワッペンが張ってあります。こんなところまでスターウォーズカンパニーの精神が受け継がれているのです。

  セキュリティを通過すると、すぐ消防署が見えます。消防署は、スカイウォーカーランチ所属の消防部隊で、消防車にはシルバーでSKYWALKER RANCHというロゴが入っており、隊員の服装も凝っています。

<宿泊施設>
  消防署の隣は、2階建ての白いアーリーアメリカン風の建物です。ここは「The Inn」と呼ばれる宿泊施設です。スカイウォーカーランチで仕事をする外部スタッフのみが宿泊を許されるホテルで、部屋は全部で20程あるそうです。各部屋は、ほとんどがスイートで大きなリビングとベッドルームが付いています。部屋によってはベッドルームが複数付いていて家族で長期間滞在も可能になっています。部屋にはひとうひとつ名前が付いています。これは、ジョージ・ルーカスが影響を受けた人から付けられているそうです。例えば、オーソン・ウエルズ、フランク・キャプラなどなど。そして部屋はその名前にちなんだ内装になっているのです。例えば黒澤の部屋は、和風にまとめられています。畳のような部屋、家具は日本からのアンティーク、黒澤明がスピルバーグに送った本物の絵も飾ってあります。ジョン・フォードの部屋はまるで西部劇映画から抜け出してきたようなウッディな作りです。アンセル・アダムスの部屋は質素ですが、飾ってある写真はアダムスが生前自ら現像したものなのです。こんな部屋に泊まることができます。
  ホテルには至る所にパブリックスペースがあり、宿泊者は夜になるとそこに集まりお酒を飲んだりテレビでスポーツ観戦をして楽しみます。

<メインハウス&テック・ビル>
  「The Inn」と消防署からさらに奥に進むと、急に視界が開けます。そこは大きな谷になっていて、周囲は高い山に囲まれています。谷を見ると、建物が2つ、そしてかなりの数の牛や馬が放牧されています。建物のひとつは白い住居風建物で、もうひとつは納屋(写真)のようです。実は住居に見えるのがルーカスフィルムのヘッドクォーターで、ジョージ・ルーカスはここで仕事をしています。納屋に見える建物はスタジオでスカイウォーカーサウンドが入っています。敷地は広大で、建物以外はただただ芝生が生えている土地とぶどう畑が延々と続いているだけです。

ジョージ・ルーカスは、この土地を購入する際、ストーリーを作りました。それはヨーロッパからサンフランシスコに移り住んできた移民家族が作った農場という設定です。このストーリーはかなり細かく作られており、その設定に沿って建物が建設されています。よって、外見だけ見ると、たしかにのどかな農場にしか見えないのです。

住居風建物は、そばに近づくと巨大です。レッドウッドで建てられた木造の建物です。かつてこの辺り一帯には沢山のレッドウッドが生えていたそうですが、伐採がすすみ、今は貴重なものになってしまいました。ルーカスは、レッドウッドで作られた橋が解体される情報を聞きつけ、この橋を解体したときにでた廃材を購入しこの建物の資材にしました。中はちょっと赤みがかった見事な壁で、とても快適です。廊下には「インディ・ジョーンズ」の帽子や鞭、「スターウォーズ」のプロップなどがさりげなく飾られています。

納屋風建物は、最新のデジタルスタジオです。外観はレンガ造りの大きな建物ですが、中はハイテクビルです。フォーリースタジオが2つ、プリミックススタジオが4つ、大きなスクリーニングルームが1つ、フルオーケストラの録音が可能な巨大スタジオが1つ、そしてスタッフ用の小さな作業スタジオが20個くらいあります。ここで、「スターウォーズ」はじめ多くの名作が作られたのです。廊下には、ルーカスが収集した本物のアンティークポスターが沢山貼られています。

<厚生施設>
ランチ内にはスタッフ用の更生施設があります。プール、スクアッシュ・コート、プールなどがあります。

「スターウォーズ」で得た利益を自分のものとせず、ルーカスは土地を購入し、スカイウォーカーランチを作り上げました。そして、その中に最新のCG制作会社、音響制作会社、アニメ会社(現在のピクサー)などを作り上げ、現在では、映像業界をリードする企業に育て上げたのです。そのほとんどの機能は、スカイウォーカーランチには収まりきらなくなったため新たに2005年にプレシディオオフィスが造られました。しかしランチは建設同時の姿を残したまま、今もルーカスの仕事場として隠された山の中にひっそりと佇んでいるのです。


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