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クリント・イーストウッド [スタッフ&キャスト]


Clint Eastwood

映画俳優だけでなく、時には映画会社の社長、監督、市長、と様々な分野で功績を残した伝説と化した人物です。

今では、アメリカの祖父、ジョン・ウェインのような存在で、その経験の豊かさ故、多くの尊敬を集めています。
そんな彼も、長いキャリアの中では何度も浮き沈みを経験しています。

クリント・イーストウッドは、1930年サンフランシスコで生まれ、オークランドで育ちました。陸軍に入隊中に友人の勧めでオーディションに参加、55年B級映画「半漁人の逆襲」でデビューします。その後、おおくの低予算作品に出演し、テレビドラマ「ローハイド」のロディ役に抜擢されます。このドラマは当時大人気となり、結果7年放送されました。

しかし、彼は別の場所で知られるようになったのです。60年代にイーストウッドは映画出演を熱望します。このままテレビ俳優で終わってしまうのが嫌だったのでしょう。彼はオーディションを受けますが、ハリウッドではなかなか仕事を見つけることはできませんでした。そんなとき、思わぬところから声がかかります。彼はイタリアに渡り、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタンに出演します。マカロニ・ウェスタンとは、イタリア製の西部劇です。英語ではこれをスパゲッティ・ウェスタンと呼ぶのですが、日本では当時宣伝担当だった淀川長治氏によりマカロニ・ウェスタンと名付けられました。当時は、西部劇が新たな角度から作られた時代でした。この異国制作の西部劇が、ヨーロッパと日本で大人気となりました。そしてイーストウッドは、まずヨーロッパと日本で人気者になりました。これらの映画はタランティーノなど多くの映画制作者に今でも影響を与え続けています。

60年代後半「ローハイド」が終了し、同時期にイタリアからアメリカにも輸入された「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」が大ヒットし、彼はようやくアメリカでも知られるようになりました。

一躍有名人の仲間入りをしたイーストウッドは、マルパソ・カンパニーという制作会社を設立します。この会社、その後一度も経営が傾くことなく経営を続け、現在でもイーストウッドの関わる作品には関与しています。

70年代にイーストウッドは、おおくの戦争映画や西部劇に出演します。しかし、どの作品も大ヒットにはならず、どちらかというとあまりヒットしない俳優となっていきました。そんな中、仕事の量が減ってきていた40才の時、イーストウッドは自分で人生を立て直そうと思い立ち、「恐怖のメロディ」で監督デビューします。ファンにつきまとわれるDJの話を映画化したのですが、撮影期間は4週間半で予算もない映画でした。イーストウッドはこれを逆手にとります。演技、演出をシンプルにしていくのです。その結果映像には恐怖がひしひしと伝わってきたのでした。映画は評価されますが残念ながらヒットしませんでした。

皮肉なもので、翌71年に俳優として参加した「ダーティハリー」が大ヒットします。この作品では自らアクションをこなし2シーンで監督も務めました。その後西部劇2本と「ダーティハリー2」に出演、75年には「アイガー・サンクション」「アウトロー」で監督・出演をこなし、徐々に人気俳優&監督としての地位を築き始めました。

特に「アウトロー」は、映画としての完成度も高く興行的にも大成功した作品です。しかし、この映画、実は別の人が監督をするはずでした。当時は人気俳優だったイーストウッドは監督と意見が対立し、結局監督を解雇して自らメガホンを握ってしまったのでした。この事件がきっかけで、アメリカではキャストによる監督の入れ替えを禁じる規定を作ることになりました。この規定は「イーストウッド・ルール」と呼ばれています。

そして、当時イーストウッドはスキャンダルにも巻き込まれてしまいます。家族がありながら「アウトロー」で共演したソンドラ・ロックとの交際を報道されてしまったのです。しかし、彼はめげずに作品に出演し続けます。「ダーティハリー3」「ガントレット」そして「ダーティファイター」が大ヒット、仕事は順調で私生活はボロボロでした。そしてついに彼は妻と離婚します。

この頃からイーストウッド作品は、どれもがヒットしていきました。「アルカトラズからの脱出」「ブロンコ・ビリー」「ファイヤー・フォックス」....「ダーティハリー4」では「Make My Day」という台詞が有名になりました。

そんな大人気俳優でありながら、自分の子供達に対する愛は変わらなかったようで、「センチメンタル・アドベンチャー」には息子を「タイトロープ」には娘を出演させています。

彼の関わる映画は順調でした。しかしある映画の撮影をしようとしたところ、思わぬ障害にぶつかります。それは撮影許可が下りないというものでした。彼は、アメリカでも重要な産業なのに町が協力できないというのはおかしいと憤り、市長に立候補し当選してしまいました。これによりこの町カーメルでは、以後撮影許可が簡単に下りるようになりました。彼は月給200ドルの市長を任期中ちゃんと勤め上げました。

88年になると「ダーティハリー5」が公開、その後チャーリー・パーカーの伝記映画「バード」を監督しました。「バード」は、ゴールデン・グローブ賞を受賞し、遂に監督として映画界に認められるまでになりました。

仕事は順調、しかしまたもやプライベートはガタガタでした。長く付き合ってきた恋人ソンドラと別れ、慰謝料請求訴訟に。ソンドラとの裁判は面倒なことになりました。その頃監督した「ピンク・キャデラック」は久しぶりの失敗作で、次の「ホワイトハンター・ブラックハート」も興行的に失敗します。そして、仕事とプライベート両方がうまくいかなくなってしまいました。このスランプは2年間続きました。

そして1992年「許されざる者」を監督します。予算がなく、わずか39日で撮影されたこの西部劇は、イーストウッドが長年親しんできた西部劇を見つめ直し、自分が蓄積したノウハウを投入した集大成でした。あまり期待されていなかったものの、公開後から大ヒットとなり、全米興行収入1億ドルを記録しました。そしてこの映画は、93年の映画賞を総なめにします。ゴールデン・グローブ賞、アカデミー賞では作品賞と監督賞も受賞しました。

この頃から、イーストウッドは彼独特の演出法を確立していきます。それは沢山の映画に出演し、演出してきた彼ならではのアプローチでした。演出をするときは、役者が演技を作り上げていく課程をとても大切にします。決して焦らせることなくじっくりと役作りに付き合うのです。そして、撮影はほとんど1テイク。まよいがなく、撮影は停滞することなく進むのです。

イーストウッドは役者から監督へと軸足を移していきました。十分な信頼を得た彼は、ハイレベルな作品作りに没頭していきました。「ピンク・キャデラック」で共演したフランシス・フィッシャーと付き合い始めたイーストウッドは人生で初めて仕事とプライベート両方がうまくいくようになりました。

94年にはカンヌ映画祭の審査員を依頼されます。95年にはアカデミー賞でアーヴィン・タルバーグ賞(貢献賞)を受賞し、映画界のトップに上り詰めます。この時のイーストウッドのスピーチは印象に残るものでした。「人生をゴルフ式に前半と後半に分けると、やっと今後半に入ったところです。前半でミスしたとしても後半で巻き返せばいいのです。私はそうするつもりです。」

既に十分なキャリアを築いてきたイーストウッドですが、さらに後半戦を戦い続けます。95年「マディソン郡の橋」を監督。そして人妻と恋に落ちるカメラマンを演じました。この作品は世界的に高い評価を受けます。しかしイーストウッドは原作の力だと謙虚な対応をして好感を得ました。

96年にはニュースキャスターのデイナ・ルイスと結婚します。

「目撃」では、エド・ハリス、デニス・ヘイズバートと、「真夜中のサバナ」では、ジョン・キューザック、ケビン・スペイシーと個性的な俳優と仕事をし素晴らしい作品を作り上げました。2000年、70才になったとき作った「スペース・カウボーイ」では、長いキャリアで築いてきた友人との共演を果たします。ドナルド・サザーランド、ジェームス・ガーナーといったかつての俳優達が勢揃いしたこの異色作は予想を裏切りヒットしました。

犯罪被害者を描いた「ミスティック・リバー」は、高い評価を得、アカデミー賞に再びノミネートされました。残念ながら賞を得ることができませんでしたが、この映画はおおくの人の心に残る傑作です。2004年に監督した低予算映画「ミリオンダラー・ベイビー」は、この年のアカデミー賞主要部門を独占します。

イーストウッドは、確かに後半戦で見事に巻き返しをしています。2006年には2本の対になる作品を監督します。プロデューサーはイーストウッドとスピルバーグです。硫黄島の戦いをアメリカサイドから描く「父親たちの星条旗」と日本サイドから描く「硫黄島からの手紙」の2本は、既に世界中から注目されています。私はラッキーなことに撮影中、ちょっとだけ内部状況を把握することができました。撮影は相変わらず早く、淡々と進められていたそうです。役者出身だけあって、日本人キャストにも尊敬の念を持ち、素晴らしい演出をしていたそうです。この硫黄島2作が、興行的にどうなるかわかりませんが、きっと映画史に残る傑作に仕上がっているのではないでしょうか。

最後にイーストウッドの言葉です。
「映画から学ぶことはおおいです。自分の弱点を知ったり、それまで経験していないことを学んだりできます。だから興味が尽きないのです。人生、一生勉強です。その意味でこの仕事は楽しい」

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荒野の用心棒

恐怖のメロディ

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ダーティハリー2

ダーティハリー3

アルカトラズからの脱出

ファイヤーフォックス 特別版

許されざる者

パーフェクト ワールド

スペースカウボーイ 特別版

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スカーレット・ヨハンソン [スタッフ&キャスト]


Scarlett Johansson

20代前半ながら、様々な話題作に出演し現在、話題の人気女優です。

スカーレットは、84年にニューヨーク・シティで建築家の家庭に生まれました。子供の頃から子役として活躍していましたが、彼女が13歳の時、両親が離婚してしまいます。その後は母親がマネージャーを務めながら女優活動を続けました。

彼女の原点は、いくつかのインディーズ作品です。本人は、インディーズ映画は、制約が少ないため、強い女を演じることができ、若い役者にとって重要なアピールの場だと話しています。

映画デビューは、9歳の時出演した「ノース/ちいさな旅人」(1994)です。ロブ・ライナーが監督をつとめ、主演はイライジャ・ウッドでした。しかし映画自体は不評でヒットしませんでした。

次に出演したのは、ショーン・コネリー製作の「理由」(1995)です。この映画でヨハンソンはコネリーの娘役を演じています。この時点で、すでに堂々とした芝居を見ることができます。

11歳で出演した「のら猫の日記」(原題:Manny & Lo)で、ヨハンソンは、サンダンス・フィルム・フェスティバルの主演女優候補になります。残念ながら受賞は逃しますが、この映画で注目されたヨハンソンは、サンダンス映画祭の主催者であるロバート・レッドフォードの目にとまります。そして、1998年に公開されたレッドフォードの監督作「モンタナの風に抱かれて」に抜擢されました。彼女は14歳にして名優ロバート・レッドフォードやクリスティン・スコット・トーマスとの競演を果たし、女優としての実力を発揮します。

「モンタナの風に抱かれて」という文芸大作に出演したヨハンソンは、再びインディーズ映画に戻ります。「ゴーストワールド」(2000)で、ヨハンソンは、ソーラ・バーチやスティーブ・ブシェミなど個性的な俳優と競演します。ここで、演技を見つめ直し、ほかのキャストとの演技の相乗効果を経験すると、彼女は一気に大人びてきます。この映画はよくある青春映画とは違い、若者の孤独をリアルに描き、世界的に話題作となりました。

次に挑んだ作品は、文芸大作「アメリカン・ラプソディー」です。アメリカ移民の娘が苦悩し、自分の原点を探る話です。撮影中、母親役のナスターシャ・キンスキーと意気投合したヨハンソンは、女性としてさらなる成長をしていきます。この頃から、撮影現場では彼女は子供扱いされず、第一線で活躍する女優として見られるようになります。ヨハンソンをひとりの女性として扱うという環境を作ったのはキンスキーでした。キンスキーも若い頃から映画業界に身を置いて苦労してきた女優です。キンスキーは、ヨハンソンの一生懸命な姿と自分の若かりし頃を重ね、援助の手を差し伸べたのではないでしょうか。

インディーズ映画や文芸作品で着実に演技を学び、評価されてきたヨハンソンは、この頃になり、メジャー映画に出演するチャンスが訪れるようになります。そこで選んだ作品は「スパイダーパニック!」(2002)です。この作品を何故選んだのかは謎ですが、マネージャーである母親が、メジャー映画への出演を焦ったためと思われます。映画は予想通り大コケします。

そして、彼女は再びインディーズ映画界に戻ります。これが「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)です。監督は、ソフィア・コッポラ。ソフィアは自分で脚本を書き、低予算で映画の製作に入ります。舞台は東京です。主演はビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソン。言葉の通じない日本で、さらに予算がない中での撮影はかなり大変でしたが、ヨハンソンは、それまでのインディーズ映画に出演した経験から、この困難な撮影を切り抜けます。さらに、ヨハンソンは年の離れたマーレイと演技で引けをとらず全編を通し一歩も譲らぬ存在感を見せつけたのです。このときヨハンソンはまだ18歳でした。
「ロスト・イン・トランスレーション」は、インディーズ映画にも関わらず世界中で大ヒットします。そしてアカデミー賞の脚本賞を受賞します。ヨハンソンもゴールデン・グローブ賞にノミネートされました。この映画がきっかけで彼女は世界的に認知されます。メジャー映画に進出して成長しようとした彼女にとっては、ちょっと皮肉な結果となりました。

「真珠の首飾りの少女」(2003)では、撮影監督のエドゥアルド・セラから、映画の撮影についておおくを学びます。照明機材や風変わりな特機に囲まれ、ヨハンソンは映画がどのように作られていくかも知ることになります。この映画を通じ、彼女は、俳優としてどう撮られるかを意識します。そして、この作品後には、常にカメラや照明の位置を意識し、堂々と振る舞うようになりました。

2004年、20歳になったヨハンソンのもとには、膨大な出演依頼が来るようになりました。彼女はそのなかから4本に出演することにしました。「百点満点大作戦」では、SATで高得点をとるべく策を練る高校生を演じます。「スポンジ・ボブ」では、初めて声優に挑戦しました。この2本は、映画界にそれほどインパクトを与えることなく興行が終了します。これらは、ヨハンソンが個人的に出演したかったようです。残りの2本はメジャー映画です。「A Love Song for Bobby Long」では、ジョン・トラボルタと競演します。この映画にはヨハンソンは企画から関わっていました。「A Good Woman」では、オスカー・ワイルドの戯曲の映像化にチャレンジしました。4作共に、興行的にはヒットしませんでしたが、「A Love Song for Bobby Long」では、2回目のゴールデン・グローブ賞ノミネートを受けました。

そして、彼女は、インディーズ映画の有名人であるウッディ・アレン監督の目にとまります。ウッディ・アレンは彼の新作「マッチポイント」(2005)の主演にヨハンソンを抜擢しました。そしてヨハンソンはアレンとの親交を深め、素晴らしい演技を披露したのです。俳優と仲良くならない監督として知られるウッディ・アレンですが、ヨハンソンだけは特別なようで、引き続きアレンの次回作にも出演が決定しています。

女優としても注目され、映画界の重鎮とも仕事をこなし、自他共に認める大女優となったヨハンソン。彼女は、満を持してメジャー映画の出演します。マイケル・ベイ監督のアクション大作「アイランド」です。ユアン・マクレガーと競演したこのSFアクションは、制作費1億2000万ドルをかけましたが興行収入は、たった3000万ドルしかあげられず、大失敗に終わりました。

スカーレット・ヨハンソンとメジャー映画は相性が悪いようです。彼女がメジャー映画に出演すると、何故か興行的にうまくいかないのです。逆にインディーズ映画に出演すると、とたんにヨハンソンは輝きはじめ、誰もが彼女の動きに驚き、感動し、心奪われていくのです。

ヨハンソンは、才能に恵まれた女優ですし、強い自信にあふれ知的で勘も良い女性です。そしてさらに幸運も持ち合わせているようです。彼女が出演したメジャー映画がコケても、その責任は彼女には及ばず、べつの理由で処理されていくのです。そして、「アイランド」のユアン・マクレガー、「A Love Song for Bobby Long」のジョン・トラボルタ、ウッディ・アレンなど、彼女と仕事をした人々は、誰もが賞賛し、また仕事がしたいと話します。

スカーレット・ヨハンソンは、2007年には5本の映画に出演します。そして、まだ20代前半だというのに、様々な男性との噂が絶えぬ女優としてもマスコミを賑わせています。

果たして、彼女は今後、どのような女優人生を歩んでいくのでしょう。マリリン・モンローの再来と言われるほど若くして脚光を浴びたヨハンソンの人生は、まだまだこれからなのです。

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モンタナの風に抱かれて

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スカーレット・ヨハンソンの百点満点大作戦

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ロスト・イン・トランスレーション

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アイランド


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レイチェル・マクアダムス [スタッフ&キャスト]


Rachel McAdams

  今、最も注目される女優のひとりです。

  レイチェルは、カナダのオンタリオ州で生まれ、子供の頃はフィギュア・スケートを熱心に練習していました。将来はフィギュア・スケートの選手になるのが夢でした。しかし、夏休みのキャンプで、偶然シェイクスピア劇の演技を経験します。これは、サマーキャンプで誰もが経験するイベントです。夏休みに同学年の生徒が共同生活をする中で学ぶ教育プログラムです。彼女は、ここで演技の面白さを知る事になります。大学に入る頃になると、遊び半分で参加した演技の授業で彼女の演技力は教授の目にとまる程になります。美しい容姿だけでなく、明るい性格と生まれ持った演技力が周りから抜きん出ていたのでしょう。

  その頃、彼女は、MTVドラマのパイロット版に出演するチャンスを得ます。彼女は、いくつかの映画に出演する機会にも恵まれ、「ミーンガール」(2004)で、意地悪な娘を演じ注目されます。そして同年に公開された「きみに読む物語」で、いきなり主役の座を射止め、注目の女優になりました。この作品では、彼女の持つ明るくて魅力的、そして女性らしさが120%表現され、映画を見た誰もが彼女の虜になってしまいました。

  おおくの「期待される女優」は、出演作に恵まれないとなかなか映画史に残る女優にはなれません。今まで、沢山の才能ある若手女優が、この機会を得る事ができずいなくなっていきました。
  レイチェルは、女優として早くもこの岐路に立たされます。たった2作の注目作で、あっというまに人生の岐路に立たされるのも酷な話ですが、彼女は、運にも恵まれ「ウェディング・クラッシャー」(2005)で、素晴らしい演技をします。大きな役ではありませんでしたが、観客は彼女のキュートな演技に心奪われました。

  あの女優は誰だろう。なんて気品のある女優なんだ。様々な役を演じ分けられる女優だ。こういう評価がでてきたのはこの頃です。

  そして、レイチェルが次に選んだのは、今まで演じた事のない役でした。それは「エルム街の悪夢」「スクリーム」シリーズで有名なウェス・クレイブン監督の新作「レッド・アイ」です。これは飛行機に乗った女性に訪れる悲劇を描いたエンターテイメント作品で、主人公の女性を演じるにはかなりの演技力が必要とされました。レイチェルは、この難しい役にチャレンジします。一歩間違うとただのB級アクション映画になってしまう企画と真摯に向かい合ったのです。
  結果、完成した映画は、クレイブンの見事な演出力とレイチェルの素晴らしい演技のため名作に仕上がりました。ほぼ同時にアメリカで公開された似た内容の「フライトプラン」と比べると、遥かに完成度が高く、手に汗握るエンターテイメントに仕上がっています。

  彼女は、「レッド・アイ」でさらなる評価を得る事ができました。そして、今後の動向が気になる女優のひとりとして注目の的です。

  きっと、新作への出演オファーが殺到しているであろうレイチェルは、次の一歩をどう選ぶのか気になります。将来ジュリア・ロバーツのような映画史に残る女優になれるのか、それとも注目されながら消えていったアリシア・シルバーストーンのような人生を歩むのか、楽しみです。

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スーザン・サランドン [スタッフ&キャスト]


Susan Sarandon

トリノ・オリンピックの開会式で、オリンピック旗を会場に持ち込んだのは、世界で活躍する女性たちでした。この中にハリウッド女優の姿がありました。平和を愛し、世界の問題に積極的に取り組むことで有名なスーザン・サランドンです。

1968年、二人の若い夫婦がある映画のオーディションを受けにNew Yorkにやってきました。この映画「ジョー」にキャスティングされたのは妻のスーザンで、夫のクリスは、映画に出演できませんでした。しかし二人は俳優として生計をたてるべく、この作品後もニューヨークにとどまり、オーディションを受け続けました。

70年代初頭、二人はいくつかのTVシリーズに出演するチャンスを得ますが、なかなか有名になれませんでした。そして1975年にまずスーザンに転機が訪れます。当時、アンダーグラウンドで人気を博していた「ロッキー・ホラー・ショー」のヒロイン、ジャネットにキャスティングされたのです。この映画はカルト映画となり、ロングラン記録を作りました。現在でも世界中で劇場公開され続けている名作です。

スーザンは「ロッキー・ホラー・ショー」で、見事にヒロインを演じきり、一気にスターダムに上り詰めました。しかしその後しばらくは、おおくの作品に出演しながら、あまりパッとしない時期が続きます。夫クリスも苦難の時代が続き、二人は1979年に離婚してしまいました。

ひとりになったスーザンは、人生において2度目の転機となる重要な作品に出演します。「さよならゲーム」Bull Durham (1988)で、スーザンは、後のパートナーとなるティム・ロビンスと出会うのです。「さよならゲーム」の出演後にスーザンとティムはパートナーとなります。(現在でも結婚はしていないようですが二人の間には子供がいます)

ティムは、俳優としても演出家としても脚本家としても才能があり、自分で映画監督をするつもりでした。そしてついに長年温めてきた企画が映画化されることになりました。映画の主人公にはスーザンをキャスティングしました。
スーザンは、勿論ティム・ロビンス監督作品「デッドマン・ウォーキング」(1955)に参加します。

「デッドマン・ウォーキング」は、公開後大絶賛されアカデミー賞に4部門ノミネートされます。そして彼女は最優秀女優賞を受賞してしまいます。苦労してきた女優生活はここで終了し、この後、スーザンはアカデミー賞女優として認知されていきます。

彼女は、その後もたくさんの映画に出演しています。最近ではアメリカ版「Shall We dance」にも出演していました。しかし、ここ数年は女優というよりは、政治的な動きの方がクローズアップされる傾向にあります。彼女は様々な環境問題や人権問題に積極的に関わり、時には物議を醸し出す発言を繰り返しています。そして確実に社会に影響を与えています。
1993年のアカデミー賞に夫婦で登場した際には、舞台上で多数のハイチ人がエイズに感染していることを世界に伝えました。そして、おおくの人からその活動に賛同を得ています。

1996年には、「世界で美しい50人」に選ばれ、AFIの重要人物ベスト50では24位にランキングされました。そしてユニセフ親善大使も務めています。

元夫のクリスは、TVシリーズに多数出演し、現在でも活躍しています。

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テルマ&ルイーズ

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さよならゲーム


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スティーブ・ジョブス [スタッフ&キャスト]


Steve Jobs

えっ、何で?と思われる方がいるかもしれません。iPODやiMACを送り出し、今やコンピュータ業界の台風の目として有名なAppleのスティーブ・ジョブスがなぜ映画のブログに登場するのか?実は、スティーブ・ジョブスは映画界にも多大な貢献をしているのです。

スティーブ・ジョブスは、母に捨てられサンフランシスコの養父母によって育てられました。実の母親が誰なのかは彼が大金持ちになるまで悩みであったようです。彼は父親の仕事の関係でサンフランシスコ南部で育ちます。ちょうど時を同じくして、この場所ではコンピューターが開発されます。ジョブスは、友達とうまくやっていけないタイプだったので、内にこもりコンピュータにはまっていきます。しかし、技術に関しては無関心で、まわりの優秀なプログラマーを集めてPCをつくる、いわばマネージャーのようなことをしていました。そのとき知り合ったのが、近所に住んでいるスティーブ・ウォズ二アックです。二人のスティーブは、電話につなぎ料金を支払わなくても遠距離通話ができる機械を開発し、近所でこれを売りまくります。そして資金を得るのです。

そして、20代前半でApple Computerを設立します。当時はまだ、部品の寄せ集めで、モニターすらついていませんでしたが、AppleのPCは、それなりに売れました。そして、きちんとデザインされた箱に部品を組み込んだ初期のコンピューターであるApple II (ウォズニアックが開発)がバカ売れします。まだフロッピーディスクやカラーモニターが開発される前のお話です。

Appleは急成長します。社員は増えていきますが、会社としての体裁はとれていませんでした。さらにジョブスは、かなり感情的な性格だったため、社内は混乱し続けていました。そこで、会社経営を任せられる人を捜します。
80年初期に、コカコーラからシェアを奪ったペプシのジョン・スカリーが、その人です。ジョブスは自らNew Yorkにいるスカリーを訪ね「いつまでも砂糖水を売っているのか?」と話を持ちかけます。そして、スカリーはAppleにやってきます。

これでAppleはうまく行くのかと思っていたところ、大きな問題が発生します。スカリーは経営のプロでありましたがコンピュータの知識がないことをいいことに、ジョブスは、好き勝手に開発費を使い使い物にならないコンピュータ制作に猛進します。LISAと呼ばれるPCは、膨大な費用を費やし利益を上げることができませんでした。この事件により会社は傾き、社内は滅茶苦茶になりました。結局ジョブスがいる限り、Appleは混迷状態から脱出することができませんでした。

これに気づいた経営陣はジョブスをAppleから解任します。彼は、自分で作った会社から追い出されてしまうのです。

ジョブスは落ち込みますが、2つの新しい試みに挑戦します。
1つはAppleよりも革新的なPCメーカー、NeXT社の設立です。NeXTは、革新的なOSを持ち、かっこいいデザインでマスコミでは話題になりますが、価格が高く商売はうまく行きませんでした。
もうひとつはコンピューターで描くアニメ会社の買収です。アニメ会社は、実はジョージ・ルーカスから買い取りました。ちょうどその頃、ルーカスは離婚という問題を抱えていました。アメリカでは離婚する場合は、夫婦で資産を等分しなければなりません。これにルーカスは悩んでいました。「スターウォーズ」で成功し、その利益で作った数々の映画制作会社。これを半分持っていかれるのはルーカスにとって痛手でした。なんとしても特殊映像を作るILMや立体音響を制作するスカイウォーカーサウンドは、自分の手元に残したい。ルーカスは悩んだ末、コンピューターで映像を作る会社を切り捨てることにしました。ルーカスの元妻は、この会社の売却額を手にするのでした。売却先がジョブスだったのです。

ルーカスから購入したコンピュータでアニメを作る会社はピクサーと名付けられました。しかし、当時のハードとソフトでは絵を描くことすらできなかったのです。よって、この会社もひたすら開発費がかかり利益は生まれませんでした。

ジョブスは、Appleの上場益と解任された際の退職金でかなりの資産家でしたが、NeXT社とピクサー社が赤字を出し続けていったので、資金が底をつき始めました。こんな状況でも資金を追加し助けたのは日本のキャノンです。

ジョブスは、NeXTのコンピュータを売り続けることをあきらめます。そしてNeXTが開発したOSの販売に特化します。UNIXベースのNeXT OSは、安定していてかなり先を見据えた素晴らしいオペレーティングシステムでした。当時、マイクロソフトはアップルのOSであるMac OSをそっくりまねたWindowsを発売し、シェアを伸ばしていた時期です。(マイクロソフトはWindows発表時はAppleにライセンス料を支払っていましたが、いつのまにか支払いをやめてしまいます。しかしいまだにビル・ゲイツはMac OSの方が優れたOSだと思っているようです)

ピクサーは、アニメが作れないので、アニメを作るために開発したコンピュータとソフト(レンダーマン)を発売します。そしてアニメを作ろうとしていたチームを解雇しようと動きます。要はピクサーをコンピュータメーカーとして成立させようとしたのです。その頃、ピクサー内では、ジョン・ラセターを中心とした優秀なアニメ制作チームが育っていました。そのチームを解散させたくなかったピクサーのスタッフは、このジョブスの意向を避けます。そして、こっそりといくつかの短編を完成させました。この作品に驚いたディズニーはフルCGアニメの制作を依頼してきます。

ピクサーの成功物語は皆さんご存知でしょう。「トイストーリー」のヒットで、それまでの赤字は解消し、利益を上げることができました。そして、ピクサーはハードメーカーとしてではなくアニメ制作会社として認知されていきます。「トイストーリー」のヒットパーティでは、ジョブスだけが舞台に上がり、ちゃっかり自分の手柄にしてしまいました。

この頃、Apple Computerは潰れる寸前まで堕落していました。コンピューターを知らないジョン・スカリーは市場に受けないPCを投入し、OSは古くて使い物にならない状態でした。いつの間にか後発のMicrosoftが市場を制していたのです。スカリーは退陣してしまいました。会社では求心力のあるトップが必要でした。そして新しいOSが必要でした。

ジョブスは、この隙間に入り込みます。そして、見事Appleのトップに復帰し、NeXTで開発したOSをMacintosh用に移植します(OS X)。アップルは、ここから奇跡の復活劇が始まるのです。相次いでiMAC、iPODを発売し、世界は新生Appleを受け入れていったのです。アメリカではiMACを買うと「トイストーリー」のDVDがついてきました。

ジョブスは、アップルを追い出された後、苦労し人間的に丸くなり、ソフトの重要性を勉強しました。

現在のジョブスは、以前に比べ温厚になり、経営者としてもしっかりAppleとピクサーを運営しています。
最近では、iTUNESとiPODで動画を扱えるようになりました。まずこの動画配信に手をあげたのがピクサーです。
当時ジョブスに解雇されそうになっていたラセターがひやひやしながら作った短編群が、ここで役立っています。


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ジョージ・ルーカス [スタッフ&キャスト]


George Lucas

言わずと知れた、「スターウォーズ」の生みの親のお話です。

ジョージ・ルーカスは、カリフォルニア州のモデストという小さな街に生まれ、短大までここで過ごしました。このモデストという街は特に何もない典型的なアメリカの田舎町です。一応アムトラックは通っているのでサンフランシスコまで電車で2時間程度で行くことができますが、1日に数本しか通らない電車に乗る住民は少ないようです。殆どの住人はモデストで生まれ、モデストで人生を終えるのです。

文房具屋の子供としてモデストで育ったルーカスは、ダウニー高校時代に車に興味を持ちます。当時、高校ではドラッグレースがはやっていて、生徒は皆車を改造して街の道路で競争をしていたのです。彼もこのドラッグレースを通じ、レースに魅了されていきます。しかし、卒業直後にルーカスは大きな自動車事故を起こしてしまいます。これは新聞にも載る程の事故で、彼は大けがをしてしまいます。これでレーサーになる夢を断たれてしまったルーカスは、地元の短大に入学します。実はこの事故が彼の人生の転機でした。

彼は、子供の頃から好きだったSFを映像化することに興味を持ちます。そして、地元の短大から映像を勉強するためロサンゼルスにある南カリフォルニア大学に転校します。そこで映像制作を勉強します。彼は、学生時代に何本か短編映画を制作していきました。その内の1本「THX-1138 : 4EB」が1967-68学生映画祭でグランプリを取ります。そして、ワーナーブラザースの奨学生となり、フランシス・F・コッポラ監督の「Finian's Rainbow」という映画の制作現場に立ち会わせてもらえることになりました。学生にとって、スタジオ映画の制作現場に参加できるのはとてもラッキーなことで、ルーカスは映画制作のノウハウを勉強することができました。そして、コッポラと仲良くなります。

ちょうどその頃、コッポラは自身で映画制作会社を起します。アメリカン・ゾエトロープという名前の会社の第1作目の映画は、ルーカス監督作品に決まりました。コッポラは「THX-1138 : 4EB」を気に入り、この作品をメジャー公開できるようルーカスにリメイク版の監督を指示したのです。長編版の「THX-1138」は、ルーカスの監督デビュー作としてワーナーブラザース配給で公開されましたが、残念ながら興行的に失敗します。当時、先進的なSF映画は一般の観客に受け入れられませんでした。

コッポラが「ゴッドファーザー」(1972)の監督として、全精力をこの映画製作に向けていったため、ルーカスはコッポラの下を離れ、自分で映画制作会社を設立します。ルーカスフィルムと名付けられたその会社でルーカスは1本の脚本を書き始めます。ルーカスがモデストで過ごした高校生時代をベースにした「アメリカン・グラフィティ」です。この映画は無名俳優ばかりを起用して、低予算で制作が決まりました。ルーカスは、自ら当時の伝説的DJ、ウルフマン・ジャックに出演交渉を行い快諾されます。60年代の懐かしい音楽とともに完成した、誰もヒットを期待していなかったこの映画は、予想に反し全米で大ヒットしてしまいます。そして1973年のゴールデングローブ賞とアカデミー賞にノミネートされてしまいました。

映画監督として認められたルーカスは、いよいよ念願の映画を制作すべく準備に入ります。それは、子供の頃熱狂した漫画「フラッシュゴードン」の完全実写化でした。しかし、この作業は困難を極めます。残念ながら「フラッシュゴードン」の映像化権は既に押さえられ、ルーカスはこの権利を取得できませんでした。ルーカスは、仕方なく自分で「フラッシュゴードン」のようなスペースオペラを作り上げようとストーリーを考えることにしました。後に「スターウォーズ」と呼ばれるこのスペースオペラは「フラッシュゴードン」のほか、「猿の惑星」や黒沢明の「隠し砦の三悪人」から影響を受けています。

ここでコッポラがこの企画に興味を示しますが、ルーカスはコッポラに助けを求めませんでした(詳しくは「スターウォーズ」の項参照)。

ルーカスは、「スターウォーズ」の脚本を持って各スタジオに出資を頼みに行きましたが、当時SF映画はヒットしないという理由で、どのスタジオも映画化に否定的でした。ルーカスは落ち込みましたが、めげずに脚本をさらに改良して行きました。そんななか、ひとりのスタジオ・エクゼクティブがこの脚本に興味を持ちます。当時20世紀フォックスにいたアラン・ラッド・jr.です。ラッドは、「スターウォーズ」製作に全面的に協力します。

20世紀フォックスが映画制作にGOサインを出したので、ルーカスは映画作りに入ります。当時SF映画などというものはチープな娯楽映画で、まともな映画ができるとは思われませんでした。しかしルーカスは、自分のビジョンを実態化するため、邁進します。まず撮影前に特殊撮影と音響会社を作ってしまいます。特殊撮影用の会社は、ILM (Industrial Light and Magic) です。この工房で、リアルな宇宙戦争の映像を作り出すことに成功します。SF映画にはダイナミックな音響が必要です。そしてルーカスは音響専門の会社、スプロケットシステムを作り、音響に関する研究もはじめました。

映画制作費は、当初の予定を超えてしまいます。ルーカスは、自分の監督料を返上し、そのかわり映画がヒットしたら利益の40%と関連グッズの商品化権を貰います。ラッドを除く20世紀フォックスの役員は、「スターウォーズ」がヒットしないと予測し、製作途中で撤退をする方針でした。しかし、ラッドだけがこの企画を推進し、最後まで出資を支持します。フォックスは、どうせ当たらない映画なのだから成功報酬とMD権を若い我が侭監督に渡してしまうのです。

映画はさらに予算が超過し、ラッドが、かばいきれなくなった頃、ようやく完成します。ラッドはこのことが原因で20世紀フォックを解雇されてしまいました。

ルーカスは、「スターウォーズ」製作中に精神的な疲労をしてしまい、心身ともにボロボロになっていました。さらに映画がヒットするという関係者も少なく、映画公開時にはハワイに逃げてしまいます。少しでも早くハリウッドから逃げたかったのでしょう。しかし、そんなルーカスに信じられないニュースが届いたのです。「スターウォーズ」の大ヒットです。ルーカスは一夜にして映画史に残る大監督になったのです。そしてアカデミー賞を7部門も受賞していまいました。

その当時、ルーカスは、偶然ハワイに来ていたスティーブン・スピルバーグと出会います。そこで新しい企画が生まれます。そう、「インディ・ジョーンズ」です。

ルーカスは、この後、「スターウォーズ」3部作と「インディ・ジョーンズ」3部作を製作します。「スターウォーズ」の監督経験から、ルーカスは自分は監督に向いていないと判断し、プロデュース業に徹します。これが功を奏し、どの映画も大ヒットして行きます。その間、ルーカス監督作品も何本か作られましたがヒットしませんでした。

映画製作を行う傍ら、ルーカスは映画技術にも力を入れます。「スターウォーズ」の興行収入からの成功報酬と関連グッズからの膨大な収入の殆どは、ルーカスの贅沢な生活には費やされず、ルーカスフィルムに費やされます。
ハリウッドから適度に離れたサンフランシスコの北に彼はスカイウォーカーランチという大きな牧場を作りました。この牧場、外から見ると確かにのどかな牧場にしか見えませんが、実は最新鋭の機材を揃えた映画の制作工場なのです。ここのなかにはアメリカ最大級の録音スタジオや音響制作スタジオがあります。スプロケットシステムから発展したスカイウォーカーサウンドの本拠地です。今ではルーカスの映画だけでなくピクサー作品や世界中の映画の音響制作を引き受ける会社として活動しているのです。
ここからちょっと離れた場所にはILMが入る大きなスタジオもあります。ルーカスはサンフランシスコに彼の映画制作会社を集約させ、新しいビジネスを確立してしまったのでした。

その後、ルーカスはスターウォーズ・サーガからさかのぼりプレクェル(エピソード1.2.3)を監督します。彼はこの映画の制作費を自己資金で賄います。要はこれらスターウォーズはルーカス個人の自主制作映画なのです。ルーカスはスタジオの意見を取り入れず、自分の作りたい作品を自分のお金と自分の会社で作り上げているのです。

今でもサンフランシスコ郊外のIn & Outというファーストフードレストランで、チェックのシャツを着たルーカスはハンバーガーを買って食べている姿が良く見かけられています。彼の生活は質素でセレブからは縁遠い田舎生活者です。

交通事故を起こして、レーサーの道を断たれた彼が30年後に、歴史に残る映画人にまでなってしまったアメリカンドリームのお話でした。でも、彼はモデストに住んでいた頃と生活スタイルを全く変えておらず、相変わらず面白い映画を作りたいという夢に向かって突き進んでいます。

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ウェス・クレイブン [スタッフ&キャスト]


Wes Craven

ニュージェネレーション・ホラー映画の才人

ウェス・クレイブンは、カリフォルニアで生まれバブティスト教会に育てられました。子供の頃は恵まれないな日々を送っていたようです。その後、大学で文学や哲学を学び、小さな大学の講師になります。大人になっても、なかなか自分の道を見つけられなかったクレイブンは、ニューヨークに出てタクシードライバーをしながら、映画のポストプロダクションでアルバイトをするようになります。そして「Together」(1971)という小さな映画を監督し、そこで知り合ったのが、ショーン・カニングハムという同世代の若者です。二人は意気投合し「鮮血の美学」(1972)を制作しますが、それほどのヒットには至りませんでした。その後、カニングハムは、自ら監督した「13日の金曜日」(1980)でヒット監督になってしまいます。そして、クレイブンはひとりで地味に映画製作を続けて行くことになります。もちろんカニングハムは大金持ちになっても友人のクレイブンへのサポートを惜しみませんでした。そして「The Hills Have Eyes」(1977)というホラー映画が低予算ながらなんとか完成しました。「The Hills Have Eyes」は、各地のホラー映画祭などで小さな賞を複数受賞し、期待以上にヒットします。これを機に映画監督としてクレイブンは本格的に活動を始めることになります。

それまでの経験を活かして作り上げた「エルム街の悪夢」(1984)が全米で公開されると、映画は大ヒットし、クレイブンは一躍有名人の仲間入りを果たします。やっと友人のカニングハムと同じ地位を得ることに成功したクレイブンはスタジオから沢山のオファーがくるようになります。しかし自身の作った「エルム街の悪夢」シリーズは、製作・配給をしたニューラインシネマに権利があり、彼の自由にはなりませんでした。シリーズに脚本家やプロデューサーとしてほんの少しだけ携わりながら「エルム街の悪夢」シリーズは量産され、作品のクオリティはひどいものになっていきました。

クレイブンは「エルム街の悪夢」シリーズに積極的に関われない状況で、「The Hills Have Eyes 2」(1985)などホラー映画を何本か監督します。しかし、それらは話題になることなく、次第にウェス・クレイブンという名前は忘れ去られて行きました。ハリウッドには「ムービー・ジェイル」という言葉があります。大ヒットをした後、次の作品が興行的にコケると、その後暫くは仕事が来なくなることを「映画の監獄」と例えるのです。クレイブンはこの監獄に入ってしまったのです。

「エルム街の悪夢」からちょうど10年後、クレイブンに転機が訪れます。「エルム街の悪夢」シリーズに陰りが見えてきたので、再び「エルム街の悪夢」の新作を監督してほしいという依頼でした。ニューライン・シネマは「エルム街の悪夢」で礎を築き、その後、「マスク」(1994)などをヒットさせ、ハリウッドのメジャースタジオと肩を並べる程大きくなっていました。
クレイブンは、この仕事を引き受けます。タイトルは「エルム街の悪夢ザ・リアルナイトメア」。クレイブンの第1作で主演を務めたナンシー役のヘザー・ランゲンカンプを呼び戻し、オリジナルキャストでセルフパロディ版の「「エルム街の悪夢」を作り上げたのです。このアイデアはなかなか斬新で、「エルム街の悪夢」パート1の正当な続編として成立しています。「エルム街の悪夢」を作っているスタッフやキャストがフレディに襲われるという構造は編集や効果と相まってとても素晴らしい映画となりました。しかし、10作近く続いたシリーズのため観客はフレディに飽きており大ヒットはしませんでした。

しかし、見ている人は見ています。「ニュー・ナイトメア」の演出に目をつけたディメンション・フィルムが新作のオファーをします。クレイブンは自身で暖めていたホラーコメディを提案します。これが「スクリーム」(1996)です。「スクリーム」では、自分の作ったホラー映画だけではなく、カニングハムの作った映画やその他有名なホラー映画のパロディを満載したホラー映画です。この「おもしろ怖い」という新しいジャンルの映画はアメリカのティーンの間で大ヒットします。そして、監獄から解放されたクレイブンは、その後ヒット作を続々と監督して行くのです。

最新作は「レッドアイ」(2005)。クレイブン初の正当派サスペンス(ホラー映画ではありません)は、さらに冴え渡る演出で、観客をドキドキさせます。
監獄から解き放たれ、今後の活躍がさらに楽しみな監督です。

<後日談>
友人のカニングハムは、「13日の金曜日」で予想外の収入を得ます。しかし映画の続編の権利はパート1のワーナーブラザースからパラマウントに移り、カニングハムは殆ど口を出せないプロデューサーとなりました。そしてハリウッド・ジェイルに入ってしまいます。その後、パラマウントが作り上げたホッケーマスクのジェイソンは人気を博しパート9まで製作されました。さすがに人気に陰りが見えてきた「13日の金曜日」シリーズは、再びカニングハムに戻ってきます。第10作目の製作です。彼はすぐにオファーを受けます。しかし、ジェイソンに飽きてしまった観客を引き戻すことはできませんでした。

そして「13日の金曜日」シリーズの権利がニューラインシネマに移行します。そう、「エルム街の悪夢」で大きくなったスタジオです。スタジオは「フレディVSジェイソン」を思いつき映画化するのです。この作品でカニングハムとクレイブンは久しぶりに仕事を共にします。

不思議なもので二人は同じような人生を歩んでしまいました。長い下積生活の後の思わぬ大ヒット、そしてハリウッド・ジェイルに入り、自身の手がけた作品のパート10を監督し、ハリウッドにカムバックしてくるのです。

噂によると、カニングハムは久しぶりに監督をするそうです。舞台はなんと....!

クレイブンとカニングハム。ホラー界の巨匠となった二人の今後が楽しみです。

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