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タクシードライバー [アメリカ映画(~1979)]


Taxi Driver (1976)

アメリカ映画史に記録されたリアリズムを貫いた名作です。監督はマーティン・スコセッシ。そして主演はロバート・デニーロ。この映画で二人は一躍スターダムにのし上がりました。

トラヴィスは、ベトナムから帰還しますが、アメリカ社会に受け入れられず、ニューヨークでタクシーの運転手をしています。彼は孤独で精神的にも病んでいました。そんな彼がある女性に恋をします。といっても現在の「ストーカーの恋」ようなものでした。この片思いが受け入れられなくなってくると、彼はおかしくなっていきます。そして最終的には、政治家の暗殺を企てていくのです。

この衝撃的なストーリーは当時、観客に驚かれ賛否両論の嵐となりました。

この映画のテーマとなる都会の外れ者のアイデアは、脚本家であるポール・シュレイダーが長年持ち続けていたものです。シュレイダー自身、離婚して映画の主人公のような安定しない時期を過ごしています。そして 60年代後半のアメリカの都市の治安の悪化や政治家ジョージ・ウォレスを暗殺したアーサー・ブレマーの手記などを統合して、デニーロ演じるトラヴィスというキャラクターが生まれていきます。

監督のマーティン・スコセッシは、この難しい脚本を映画化することに拘りました。当時、主人公に感情移入しずらい映画は敬遠されがちでしたが、あえてこの難しい企画に挑戦していきます。よって制作費は抑えられ、低予算での撮影となりました。主演は、「ミーンストリート」で監督と仕事をしていて、「ゴッドファーザー2」で名を知られるようになったロバート・デニーロ。主人公のトラヴィスと相対関係にある風俗嬢に新人のジョディー・フォスターをキャスティングします。音楽は、「サイコ」のバーナード・ハーマンが見事なサウンドトラックを提供しました。

本作は、様々な映画本で評論され尽くしています。よってここであえて作品の芸術性について語る必要はないでしょう。この一見ヒットしないようなストーリーでも、映画は興行的にヒットし、おおむね高い評価を得ました。そして年を追うごとに映画史に残る名作として認知されていきました。どうしてこのような結果になったのでしょうか。それは、公開当時の社会がとても不安定で、人々が心の中に持つ危険性を見事に具体化したからでないでしょうか。実際、この頃からアメリカの社会は荒れてしまいました。そして、デニーロはじめ素晴らしいキャストの演技と監督の近年稀に見る演出が加わり、歴史に刻まれたのです。

映画は、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞します。そしてデニーロは、ニューヨーク映画祭で最優秀男優賞を受賞しました。

最近、発売された「タクシードライバー」のDVDについている特典を見ると、当時の撮影状況がかいま見えます。私が驚いたのは、「デニーロ・アプローチ」と呼ばれるようになったデニーロの発言です。彼は映画の役になりきるため、容姿を変えていきます。「レイジング・ブル」では太ったりやせたり、「アンタッチャブル」では毛を抜いたり......とにかく役になりきるためには何でもするのです。この映画ではトラヴィスはモヒカン刈りになります。デニーロは、モヒカンにして主人公を演じている、と何十年も感心してきたのですが、実はあれはカツラだったそうです。これにはビックリしました。デニーロだから何でもやっているわけではなかったようです。

デニーロは、この映画がきっかけでスターとして人気を博します。「ゴッドファーザー」「ディア・ハンター」「レイジング・ブル」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」と立て続けに大作に出演し、現在も大物俳優として話題になっているのは、皆さんご存じの通りです。映画公開時14才だったジョディ・フォスターは、俳優として、そして映画監督として現在も活躍中です。1991年の「羊たちの沈黙」では、アカデミー賞も受賞しました。
マーティン・スコセッシ監督は、「ニューヨークニューヨーク」「ラストワルツ」「レイジング・ブル」「カジノ」「アビエイター」など多くの名作を監督し続けますが、無冠の帝王と呼ばれ、なかなか映画賞を受賞できませんでした。しかし2006年の「デパーテッド」で、いよいよ受賞の可能性がでてきました。音楽を担当したバーナード・ハーマンは、残念ながらこの映画のスコアを作曲した直後、亡くなってしまいました。

先日、「タクシードライバー」を見直したのですが、今見ても十分面白く、映画としても素晴らしいクオリティでした。こういう作品を映画と呼ぶのでしょう。スタッフやキャストがいなくなっても永遠に見続けられる作品です。

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サイコ [アメリカ映画(~1979)]


Psycho

アルフレッド・ヒッチコックによるサスペンスの傑作。

ヒッチコックは、映画の神様と言われるほど現在の映画に影響を与えています。彼手腕は、脚本作りから、撮影、編集、そして宣伝に至るまで、斬新で革命的だったからです。戯曲が全てシェークスピアのアレンジだと言われるように、現在の映画はほとんどがヒッチコックのアレンジだと言っても過言ではないと思います。

そんなヒッチコックが、映画監督として不動の地位を築いた後に作ったのが「サイコ」です。

「サイコ」 は、ロバート・ブロックがエド・ゲインによる実際の犯罪をヒントに書いた小説を基に作られました。
この事件とは、母親オーガスタ・ゲインの信仰に由来すると思われる倒錯的な性教育を受けて育ったエド・ケインが引き起こした事件です。エドは、1940年に父親を、1944年に兄を、また1945年に母親を亡くしています。孤独となり、絶対的な影響力を持つ母親が死んでから、エドは次第にオカルトや解剖、屍体への性的執着、カニバリズム(人肉嗜好)を現していったのです。
1957年11月16日に近くに住む女性を殺害した容疑で逮捕され、その家宅捜索では全部で15人の女性の死体が見つかりました(どれも十分に解体されており、一部はベスト(チョッキ)や食器・家具に加工され、また一部は食用として保存されていた)。しかし、エドは裁判で死体は8人分で、すべて墓場から掘り起こしたものだと主張しました。
裁判は、慢性的な精神障害(性的サイコパス)として無罪になりましたが、エドは、ミネソタ州立精神病院に収監されました。その後は精神病院で過ごしました。

アルフレッド・ヒッチコック監督は、この奇妙な事件を取り上げ映画にしようと試みました。ヒッチコックが企画・製作を兼ね、資金はたった80万ドルでした。
何故ヒッチコックが、こんな映画を手がけるのか首をかしげる人もおおくいたようです。しかし、できあがった脚本は素晴らしいサスペンスになっていました。ジョセフ・ステファノによって書かれた脚本は非常にユーモラスなものになっていました。エド・ケイン事件をベースにしているものの、ほぼオリジナルのストーリーは傑出した出来で、スタジオは制作にGOサインを出します。

本映画の途中までは、ひとりの女性が会社の金を盗んで逃亡するという物語です。ところが、彼女は宿泊したモーテルで突然刺殺されてしまいます。モーテルの経営者はマザー・コンプレックスの強いものの、一見好青年です。彼が班員とは思えません。そして調査に訪れたアベックにも魔の手が迫ります。この一連の事件を追うのは、刺殺された女性の妹です。彼女は犯人を見つけることができるのか.....

この頃、ヒッチコックは、ハリウッドのメジャースタジオの手がける映画は余計な費用がかかりすぎると懸念していました。映画スタッフには、強いユニオンがあり、休息時間や労働時間に関する取り決めがあり、撮影は時間がかかるばかりで非効率的でした。ヒッチコックはテレビで「ヒッチコック劇場」を手がけていたので、「サイコ」では、テレビスタッフで簡単に撮影してしまおうと決めました。

映画はスピーディに撮影され、あっという間に完成してしまいました。しかし、ヒッチコックは手を抜いたわけではありませんでした。後世に語り継がれるシャワーシーンはあまりにも有名です。ソウル・バスによるオープニングやバーナード・ハーマンによる音楽も誰もが覚えている出来映えです。

映画は世界的に大ヒットします。そしてヒッチコックの名はさらに大きくなっていきました。ヒッチコックは、後年フランソワ・トリフォーに語っています。
「きみも、こういう映画を作るべきだ。世界中で大ヒットして何百万ドルという収益をあげる映画をね!シナリオよりもテクニックに喜びを見いだす映画作りの分野があることがわかるだろう。その種の映画で重要なのはカメラだ。映像だ。当然ながら批評家の評価は得られないだろう。しかし、映画というのはシェイクスピアの芝居のように、観客のために作られるべきなんだよ。」

ヒッチコックは、晩年までこの「観客を喜ばす」というテーマを貫き通しました。そして、「サイコ」はあらゆるサスペンス映画、ホラー映画のお手本となったのです。

同じエド・ケイン事件を元にして、もう1本傑作が誕生しています。「悪魔のいけにえ」(1974年)です。こちらはホラー映画で、ケイン事件をよりリアルに再現しています。 「サイコ」は、その後、パート4まで続編が作られました。これら続編は、「サイコ」と直接関係がありません。

「サイコ」のヒット以降、旅行者が、田舎で襲われ、そこから逃げ延びるというストーリーの亜流が数百本作られています。

<リメイク>
「サイコ」は1998年にリメイクされています。リメイク版の監督はガス・ヴァン・サント。撮影はクリストファー・ドイル。このリメイク版はヒッチコックによる白黒映画版『サイコ』と全く同じカット割りで作らました。もちろん俳優は前作と異なり、なによりこちらはカラー映画として制作されましが、題名のロゴも含めて、意図的に全く同じになるように制作されました。しかし完成版は駄作で、ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク・最低監督・最低助演女優賞に選ばれる結果となりました。

この試みは映画史に残る実験でした。ヒッチコックと全く同じように作られたのにもかかわらず、ヒッチコック版は映画史に残る傑作で、ガス・ヴァン・サント版は、駄作なのです。違いは役者だけです。映画というのは、関わったスタッフの魂が込められています。全く同じに作ってもここまで差が出てしまうという結果に当時私は大変驚かされました。巨額を費やした壮大な実験は、今後行われることはないでしょう。

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悪魔のいけにえ


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ジョーズ [アメリカ映画(~1979)]


Jaws (1975)

スティーブン・スピルバーグの監督作の中でもNo.1の傑作スリラーです。

UCLA時代から映画監督を目指していたスピルバーグは、若くしてユニバーサルスタジオに出入りしていました。しかし、これはオフィシャルなことではなく、勝手にスタジオ内をうろついていたようです。そうするうちにスタジオ関係者とコミュニケーションを持つようになり、自らを売り込んだそうです。

彼は大学卒業後、TVドラマの監督の仕事を見つけます。そこで何本かの作品を作ると、瞬く間に才能が見いだされていくのです。そして1971年には、2時間ドラマの監督に抜擢されます。ふつう2時間ドラマというと、日本と同様、ちょっと安い映画っぽく作られるのですが、スピルバーグは、低予算ながらハラハラするサスペンス・ドラマを完成させます。これが「激突」です。このドラマ、あまりにも出来が良いため、アメリカ以外では劇場公開される事が決まりました。日本でも「激突」は劇場で公開され、実質的にスピルバーグの劇場デビュー作となりました。

「激突」が好評だったため、アメリカでは急遽、スピルバーグへ劇場映画の監督が依頼されます。そして作られたのが「The Sugarland Express」(1974)です。彼にとってのアメリカデビュー作です。日本では、「激突」にあやかり「続・激突」という珍タイトルを与えられ公開されました。

スピルバーグの演出力に自信を持ったユニバーサル・ピクチャーズは、当時大ベストセラーだった「ジョーズ」の監督を依頼します。スタジオにとっては大きな賭けでした。そして29才のスピルバーグにとっては大きなチャンスでした。
ユニバーサルは、高額な制作費を回収するため、歴史上初めてのブロックバスター展開を行います。ブロックバスターとは、今では良く見かけますが、書店では原作本の表紙を映画のポスターと連動させ、店内で大宣伝を行います。町ではありとあらゆるビルボードを押さえ、ポスターを貼りまくるのです。そして、公開が近づくと、TVで宣伝を行います。人々は、どこに行っても「ジョーズ」のビジュアルを見せつけられるのです。こうして、映画の公開を待ち望む人々は増えていきました。

しかし、撮影現場は大変な事になっていました。スピルバーグは、絵にこだわり、撮影はなかなか進みません。そして、この映画のために作られた大きなサメのロボットは、塩水にやられ動かなくなってしまいました。制作費は予想を上回り、ユニバーサルは追加出資をさせられます。スピルバーグは解雇寸前でした。しかし、彼は妥協する事なく監督業に専念します。
現在、「ジョーズ」に関しての詳細な裏話はDVDで見る事ができます。当時の現場の混乱ぶりは大変なものだったことが確認できます。

なんとか公開に間に合った「ジョーズ」は、世界中で大ヒットし、社会現象にまで発展していきます。これは、事前の宣伝展開と、スピルバーグの素晴らしい演出力によって作り出された完成度の高い映画が両輪となって生み出された現象です。

その後、このブロックバスター宣伝は、世に定着しました。そして、スピルバーグは世界的に有名な監督になりました。しかし、「金のかかる監督」というレッテルを貼られ、ユニバーサルとは契約を打ち切られてしまいます。

ご存知のように、その後、スピルバーグは、コロンビア映画に資金を提供してもらい「未知との遭遇」でさらに大ヒット監督となります。そして、その後仲良くなったジョージ・ルーカスから「インディ・ジョーンズ」で、予算を抑えた映画作りを学びます。

ユニバーサルは、「ジョーズ」で巨額の利益を上げ、会社は順調に運営できるようになりました。スピルバーグは、自身の製作会社アンブリン・エンターテイメントを立ち上げるとき、ユニバーサル・スタジオ内に土地を借りました。そして関係を修復したユニバーサルは彼の新作に資金提供する事になります。これが「E.T.」です。

この映画は、ライド・アトラクションになり、現在でもユニバーサル・スタジオで人気を博しています。

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地獄の黙示録 [アメリカ映画(~1979)]


Apocalypse Now (1979)

フランシス・フォード・コッポラの名を有名にした名作です。

ベトナム戦争で、ベトナムの奥地に自身の帝国を築いてしまったカーツ大佐。カーツ大佐は、元アメリカ軍の優秀な兵士だったはずですが、今は軍の指揮下にないのでした。そこでアメリカ軍はウィーラードに命じます。カーツ大佐を暗殺せよ、と。

ウィラードは、早速軍の用意した船に乗り、山奥にあるカーツ大佐の帝国に向かいます。その道中でウィラードが見たのは、もはや目的を持たないベトナム戦争の現実、そしてそれに苦しめられる人々、兵士たちでした。さらにウィラードが得るカーツ大佐に関する情報からは、カーツに対する尊敬の念が増すばかり。果たしてウィラードはカーツ大佐を暗殺すべきなのでしょうか....

この映画の企画は、「スターウォーズ」で有名になったジョージ・ルーカスが暖めていたものです。ルーカスはいつか自分の手で映像化したいと思っていました。しかしデビューの際に世話になったコッポラが「スターウォーズ」の企画に関わってくる可能性があったので、ルーカスは「地獄の黙示録」の企画をコッポラに譲ってしまったといわれています。コッポラは「地獄の黙示録」の企画に乗り、以後夢中になります。この間にルーカスは「スターウォーズ」の開発を独自に進めたのでした。当然、この策略を知ったコッポラは気分を害し「地獄の黙示録」にはルーカスのクレジットがありません。

映画自体の製作は困難を極めました。ベトナムという不慣れな土地での撮影、資金不足、我が侭な俳優陣...コッポラは途中でノイローゼになりました。撮影時、既に有名俳優だったマーロン・ブランドは我が侭を言い続け、ウィラードを演じたマーティン・シーンは役と同化し過ぎ情緒不安定となってしまいました。コッポラもちょっとおかしくなってしまい撮影は終了しました。当然予定通りの映像は撮影できず、映画は完成しないとまでいわれました。

この制作過程の悲惨な状況は、コッポラの妻が撮影したドキュメンター「ハート・オブ・ダークネス」で詳しく描かれています。「ハート・オブ・ダークネス」は、あまりにリアルに当時の混迷を描いていて、「地獄の黙示録」よりも凄いと話題になりましたが、妻が旦那の無様な姿を撮り続けているドキュメンタリーとなっており、現在は肖像権の問題で公開はできなくなっています。

「地獄の黙示録」は撮影後に奇跡が起こります。3人の編集マンとドアーズの音楽により、ブツブツに途切れた映像が見事に繋がって行ったのです。映画は、当初の台本のようにあるストーリーが生まれ、ベトナムの混迷が鮮明に浮かび上がりました。

映画は、世界的に大ヒットします。公開当時はまだベトナム戦争はリアルで、それませベトナムを描いた映画の殆どは「アメリカ万歳」色の強い作品でした。そこに初めて「ベトナム」を肯定しない映画が現れたのです。アメリカのマスコミは「地獄の黙示録」を取り上げ興行はどんどん成功に向かって行きました。そしてベトナム戦争映画が多数製作されるというブームも起きました。

結果、この映画に関わった人々は有名になりその後の人生は一変します。マーロン・ブランドはさらに我が侭になり、コッポラの金使いはさらに荒くなりました。

面白いのは、1980年代に現れたベトナム戦争映画の名作「プラトーン」の主演がマーティン・シーンの息子チャーリー・シーンだということです。「プラトーン」はベトナムから10年以上経ち、アメリカ人が冷静にベトナム戦争を見ることが出来る時代になった故ヒットした映画です。時代は違えど同じ戦争を肯定しない映画に親子が主演しているのは感慨深いものです。

コッポラは、その後、自身の映画製作会社ゾエドロープスタジオで映画を作り続けますが「ワン・フロム・ザ・ハート」で破産します。それ以降はおとなしくなり、今はNapa Valleyでワイナリーを営み大成功を果たしています。娘のソフィアは、東京を舞台にした「ロスト・イン・トランスレーション」で、2004年のアカデミー脚本賞を受賞しました。アカデミー賞でとても喜んでいたコッポラの娘の溺愛ぶりが微笑ましかったです。


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