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インサイダー [アメリカ映画(90s)]


The Insider (1999)

今回は、ジャーナリズムとは何かを問う骨太名作の紹介です。
この映画は、あるテレビニュース番組で起きた事実を映像化したものです。

アメリカのCBS放送は、3大メジャーのひとつを担う世界でも最大手のテレビ局です。日本では、日本テレビ、TBS、フジテレビと同じような民放キー局です。
このチャンネルには、1968年から続く人気ドキュメンタリー番組があります。タイトルは「60 Minutes」。60分の番組内で毎週3つのニュースを取り上げ、それぞれの裏側を鋭く報道していきます。
日本では、TBSが「JNN報道特集」で「60 Minutes」を模していますが、その内容には大きな開きがあります。「60 Minutes」は、毎回、毎テーマに関し、相当なリサーチを行い、視聴者が驚かされる情報を伝えてくれるのです。時には、ニュースが世の中を動かしてしまうほどセンセーショナルな特ダネを掴んだりします。

アメリカでは、知識層の人々にとどまらず、幅広い視聴者が、「60 Minutes」を見ています。これは、アメリカで起こる数々の問題をしっかりと見つめ、世の中を変えていこうという考えが強いからです。そして低所得者やマイノリティが置かれる現状を報道してもらい、少しでも自らの生活を良くしたいという思いもあるからです。

この映画は、この「60 Minutes」という番組が舞台です。ある日、番組のプロデューサーであるローウェル・バーグマンの元に匿名で書類が届けらます。それはタバコ産業の不正を告発する極秘ファイルでした。彼は直ぐに事実確認をするため動き出しました。そして、アメリカの大手タバコ会社であるブラウン&ウィリアムソン(B&W)社が、とんでもない成分をタバコに入れ常習性を高めているという事実を掴むのです。B&W社は、当時ラッキーストライク、マルボロ、パーラメントなどを生産していました。バーグマンは、この事実の裏付けをとり、番組で報道することにします。しかし、CBS上層部は、スポンサーでもあり政治に大きな力を持ち、さらに社を買収することができるほどの資本を持つB&W社に恐れをなしてしまうのでした。バーグマンは、事実を報道できないという報道機関で最も重要な「ジャーナリズム論」に苦悩していきます.....

日本では、同様な問題はマスコミで毎日のように起きています。そして、毎日のように「ジャーナリズム」「正義」という言葉は置き去りにされ、正しい報道が行われていないのです。日本の報道機関には、きちんとジャーナリズムの勉強をしてこなかった学生が現場記者として配属されるという大きな問題があります。そして「正義感」のない記者は、記者クラブという仲良しチームを結成し、皆で同じ内容のニュースを流すという恐ろしい慣習が当たり前のように行われているのです。

ある刑事事件のニュースを見てください。どの新聞もどのテレビ局も同じ内容です。そして感情論に流れ、国民が加害者(時には被害者)をバッシングします。そして、別の事件が起こると、新しいターゲットを非難し続けるのです。事件には必ず多面性があり、加害者の考えや被害者の考え、そしてその事件が起こった背景や、その後のインパクトなど、きちんと報道しなければならない事柄が多数あるのに何故か同じ情報が垂れ流されるのです。
記者クラブは、基本的に警察と親密で、警察から流される情報をそのままソースとすることがあります。そして、各社各局の記者が、事件に対する情報確認、共有を行い報道するのです。
この恐ろしい情報操作問題に気づいている人がいったいどのくらいいるのでしょうか?
かつて、長野県知事だった田中康夫氏は、記者クラブ解散宣言をしました。彼はきっとこの問題に気づいていたのでしょう。しかし、楽をしたいマスコミ各社は、一斉に反田中報道を始めました。そして、結局退陣させられたのです。これは、とても恐ろしいペンの暴力ではないでしょうか。

さて、話を映画に戻しましょう。番組のプロデューサー、バーグマンは、どんな脅迫にも屈することなく、大手タバコ会社の犯した犯罪を世の中に伝えるため、あらゆる困難を克服していきます。映画の見所はここです。とにかくハラハラさせられます。そして、とうとうバーグマンは、番組を降ろされてしまうのです。

でも、この話はここで終わりません。バーグマンは、さらに新たな手を打ってくるのです。バーグマンにとって、この事実を公にすることは、なんのメリットもありません。でも、「ジャーナリズム」という考えから、多くの国民を救うという使命感から、命を脅かされても、情報を開示するために突き進んでいくのです。

映画の結末は、皆さんご自身で確認してください。そして、アメリカのジャーナリズムの素晴らしさを実感していただきたいです。

そんなアメリカのジャーナリズムも、ブッシュ政権になり日本のようになってしまいました。優秀なジャーナリストは、皆解雇され、国の意向に逆らわないマスコミが台頭してしまいました。しかし、ブッシュ以後は、必ず真のジャーナリズムが復権すると思います。そして日本のマスコミもそれに追随してほしいと思うばかりです。

この事実は、結局大きな事件に発展していきました。巨大企業B&W社は、遂に経営に行き詰まってしまいました。2004年B&W社は、R.J.レイノルズ社に吸収されてしまいます。

ある民法の1番組が、結局小さな国家規模の大企業の運命を変えてしまうというダイナミックな展開は、まるで映画のようです。でもこれはつい10年ほど前にアメリカで起こった事実なのです。

映画の監督は、巨匠マイケル・マンです。そして、バーグマンを演じるのは、名優アル・パチーノ。この二人のタッグは、実際にあった事件をよりリアルに、そしてドキュメンタリー・タッチで浮き彫りにしていきます。苦悩する元B&W社の役員にラッセル・クロウが好演しています。

映画は、2000年アカデミー賞で7部門にノミネート、他にも世界中の映画賞を受賞しました。

日米共に政治や社会が混乱している現在でこそ紹介したい作品です。

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ブレーキダウン [アメリカ映画(90s)]


Breakdown (1997)

好評につき、今回も知られざる名作をご紹介します。
この映画は、ジョナサン・モストゥ監督が有名になる前に監督したアクションサスペンスの秀作です。

この作品の後、監督した「U-571」と「ターミネーター3」ですっかりメジャーになったジョナサン・モストゥですが、彼のフィルモグラフィーの中でズバ抜けて面白い映画がこの「ブレーキダウン」です。この作品には監督として参加しているだけではなく、企画とストーリー原案、脚本家、そして監督の4役をこなしています。要はモストゥ自身が作ったオリジナル映画なのです。

ストーリーは、アメリカでありがちな設定です。東海岸から西海岸に引っ越す夫婦が、中西部で車の故障というアクシデントに遭遇してしまいます。アメリカを長距離走ったことのある方ならお分かりだと思いますが、このようなトラブルは日常茶飯事で、たいしたことはありません。妻は、夫が車の修理をしている間、ちょっと先にあるダイナーでお茶をして待とうと思ったのです。これもアメリカでは良くある光景です。

しかし、車が直ってダイナーに行くと、そこには妻の姿がありません。人の良さそうなその小さな町の住人も皆そんな女性は見ていないというのです。

ここからが、この映画の面白いところです。主人公(カート・ラッセルが熱演)は、妻を捜し出し、救出します。妻が失踪するという事件。そしてその裏に隠された真実を発見し、果敢に挑む夫の姿は見ていてハラハラさせられますし、すっかり映画に引き込まれてしまいます。

アメリカでは、この映画、予想外のヒットを記録し今でも人気があります。日本では一応公開されましたが、あまり話題になりませんでした。私は友人に誘われて劇場に見に行ったのですが、あまりの面白さにびっくりしました。ただ劇場はガラガラでした。

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セブン [アメリカ映画(90s)]


Se7en (1995)

デヴッド・フィンチャーは、1962年にコロラドで生まれ、サンフランシスコ郊外のマリン郡で育ちました。このマリン郡は、アメリカでも屈指の高所所得者層が住む町として有名ですが、もうひとつ有名なことがあります。それは「スターウォーズ」を作ったジョージ・ルーカスが会社を構えているということです。

フィンチャーは、子供の頃から映像制作に興味を示し、家の近くにあるILMに就職します。ILMとは、ルーカスフィルムの1部署で、「スターウォーズ」などのVFXを担当している会社です。フィンチャーは1981年から3年までここで働き、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のマット画を作ったり、「スターウォーズ ジェダイの復讐」ではミニチュア撮影や光学合成を担当しました。

彼は、撮影を通し映像にこだわりを持つようになります。そしてILMを辞め、ロサンゼルスに移りCMを作る仕事を始めます。彼のセンスはすぐにCM業界で注目され、ナイキ、コカコーラ、リーバイス、シャネルなど大手クライアントのCMを次々に監督し評価されました。

このCM監督としての評価はすぐに世界中の映像関係者に広がり、彼はCMとともに音楽業界でも成功していきます。当時、MTVが成長期にあり、大手アーティストは自分の楽曲に会う美しい映像を要望していました。シャネルのCMに魅了されたアーティストは、早速フィンチャーにアプローチしたのです。そして、彼は、マドンナ、スティング、ローリング・ストーンズ、マイケル・ジャクソン、エアロスミス、ジョージ・マイケルなどのプロモーションビデオを制作します。これらは全て大ヒットし、フィンチャーの地位は完全に確立したのです。
当時、私のいた映画学校では、皆が撮影時にレンズにストッキングをかぶせていました。誰もがフィンチャーのような映像を作りたかったのです。

そして、遂に、映画界からアプローチがあります。それは「エイリアン」シリーズの新作を監督しないか、というオファーでした。彼は、すぐに制作に入ります。しかし、CMやプロモーションビデオとは違い、映画は映像の上映時間が長く、いくら美しい映像をつないでも映画が面白くならないことがわかってきます。フィンチャーは、ここで苦しみます。彼は必死で「エイリアン3」を完成させますが、お客さんからの評価は芳しくありませんでした。確かに映像は美しいのですが、ストーリーが単調で、リドリー・スコットが描いた「静」の恐怖を描いた美しい第1作、ジェームス・キャメロンが描いた畳み掛けるアクションとダイナミックなストーリーが印象的だった第2作と比べると、なんとも中途半端な作品になっていたのです。

フィンチャーは、この失敗でいくつかのことを得ました。まず、映画は美しい映像だけでは成功しないことを痛感しました。撮影前にしっかりと「面白い」ストーリーを作らなければならないことを学んだのです。そして、スタジオから持ち込まれた企画ではなく、自分自身が面白いと思う企画を監督すべきだということも学びました。

丁度その頃、フィンチャーは、ニューヨークのタワーレコード店員が書いたある企画に注目します。これこそが自分の見たい映画だ。これを映画化しよう。そう決意したフィンチャーは、この企画を脚本にします。そして、小さな映画会社に企画を持ち込み、低予算で制作を開始します。これが「セブン」です。

CMとプロモーションビデオで仕事をしていたので、ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンという豪華キャストが参加します。そして、音楽はデビッド・ボウイです。そして、丁寧に作られた絵コンテに従い、フィンチャーらしい美しい映像に、恐ろしいストーリーが展開するこの映画は、完成後、話題を呼びました。

制作したスタジオ、ニューライン・シネマは、それまで「エルム街の悪夢」など低予算ホラーを制作していましたが、そのつもりだった「セブン」は、A級映画として仕上がり、世界中で公開が決まりビジネス的に成功します。

衝撃的なラストシーンと共に話題となったのは、オープニングとエンディングクレジットのかっこいい映像です。実はこの部分はフィンチャーが作った訳ではありません。クレジットは、カイル・クーパーという若者が作ったのです。クーパーは映画のクレジット専門のクリエイターで、セブンのためにいくつかのクレジットデザインをフィンチャーに提示しました。フィンチャーの世界感に沿った、素晴らしい映像を見事に作り、さらに、犯人ジョン・ドーの性癖を見事に表現したクレジットは、今でも高い評価を受けています。

「セブン」は、世界中で大ヒットします。そして、フィンチャーは映画監督としても評価されました。彼は、このあと、「ゲーム」「ファイトクラブ」「パニックルーム」と、独自の美しい映像と、ちょっと怖いストーリーテリングで人気を維持しています。ニューラインは、小さなスタジオではなく、ミニ・メジャーと呼ばれる大手映画会社に成長しました。そしてピットの人気はうなぎのぼり。クーパーは、現代のソウル・バスと呼ばれ、幅広い分野でデザイナーとして活躍しています。

「セブン」に参加したこの若いスタッフ&キャストは、今では、皆、映画界の中心でがんばっています。

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フェイス・オフ [アメリカ映画(90s)]


Face / Off (1997)

ジョン・ウーは、中国で生まれ香港で育ちました。彼は映像業界を目指し、若い頃からショウ・ブラザースで助監督として働きます。そして「男たちの晩歌」を監督し、この作品で世界中から注目されました。若くして早くから注目される監督になったウーは、それから何本か香港で映画を監督し、それぞれがヒットします。当然日本でも話題になりました。

90年代に入ると、ハリウッドは、アメリカ人監督の人材難という問題にぶつかります。そこで、優秀な監督を海外から起用し始めます。はじめはヨーロッパ圏から監督を招聘していましたが、それでも問題は解決せず、遂にアジアに手を出し始めます。それまでは、アジアの監督は黒澤をはじめ何人かが知られてはいましたが、英語を使いアメリカで製作するハリウッドエンターテイメント作品にアジア人監督を起用する事はありませんでした。

ハリウッドは、ジョン・ウーに白羽の矢をあてます。ジョンは、「ブロークン・アロー」という映画の監督に抜擢されアメリカに飛びました。しかし、英語が全くわからなかったウーは撮影現場で苦労します。コミュニケーションの問題は監督に取って致命的でした。それでも通訳を介しがんばって演出をしました。映画は残念ながら大ヒットとはいきませんでした。

ウーは、この経験を活かします。映画完成後、英語を猛烈に勉強します。そしてどんどん英語力をつけていくのです。そして、自ら自分らしい演出のできる企画を模索し始めます。

そんな中、タッチストーンがウーに映画制作の依頼をしてきます。この企画が後に「フェイス・オフ」となるのです。

主人公は、「ブロークン・アロー」で信頼関係を築いたジョン・トラボルタ。そして、相手役にはタッチストーンと契約があったニコラス・ケイジがキャスティングされました。ストーリーは刑事と追われる犯罪人が顔を入れ替えるというちょっとマンガっぽい設定ですが、ウーは、この作品を見事に演出していきました。

ウーが、ただのアクション・エンターテイメントにする事なく、芸術の域まで高めたこの作品は、公開時、話題になりました。特に、銃撃戦の中で子供にヘッドホンを付けさせるシーンは素晴らしく、映画史に残る名シーンです。そして「男たちの晩歌」依頼ウーの定番となった「鳩」は、この映画で世界的記号に昇華されました。

ダンスのようなアクションシーンを見たトム・クルーズは、「ミッション・インポッシブル2」の監督にウーを希望し、ウーのスケジュールに併せてクランクインを延期した程です。

ウーは「フェイス・オフ」以降、ハリウッドの重要な監督のひとりとして活躍しています。これ以降、アン・リー他おおくのアジア人監督がハリウッドでメガホンをとるようになりました。

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遠い空の向こうに [アメリカ映画(90s)]


October Sky (1999)

実話を基にしたロケット研究を目指す高校生の感動物語です。

ジョー・ジョンストンは、もともとデザイナー志望で、学生時代から映画の美術の仕事をしていたようです。彼は、ジョージ・ルーカスが作ろうとしていた低予算SF映画に参加します。

当時はSF映画といってもまともな作品は「2001年」宇宙の旅」くらいしか成功作品はなく、潤沢な予算がないなかの制作は困難を極めていました。資金がない中、リスキーなSF映画を作るという試みは、外から見ると無謀でしたが、そこに参加した若い映画スタッフは全情熱を傾けて映画制作に没頭しました。これが後に大ヒットする「スターウォーズ」となるのはまだまだ先のことです。

当時、ジョンストンもその情熱のある若き映画スタッフの一人でした。彼は情熱だけでなく優れた才能も持っていました。ルーカスからオーダーされたのはこのプロジェクトの機材デザインだったのです。ジョンストンは、誰もが驚く程の素晴らしいデザイン画をつぎつぎに提出します。ルーカスを含むスタッフが驚いたのは左右比対称で不格好なミレニアム・ファルコン号、美しいシェープのXウィングなどです。

「スターウォーズ」ヒットの陰にはいくつかのミラクルが存在します。そのひとつがジョンストンのデザインにあったのは明らかです。マーチャンダイズの権利を押さえていたルーカスは、ジョンストンのデザインした宇宙船を商品化し大儲けします。そしてその資金で続編が制作されることになりました。ジョンストンは「スターウォーズ」シリーズになくてはならない存在となり、その後のシリーズを支えました。

そんな中、彼は映画監督の仕事に傾倒していきます。デビュー作は「ミクロキッズ」(1989)。子供を小さくしてしまう研究者の話でアメリカでは大ヒットしました。この映画で演出力をつけたジョンストンは「ロケッティア」「ジュマンジ」など子供向け映画が得意な監督として認知されるようになります。子供映画と言えど美術に関するこだわりがあり、「ロケッティア」のマスクは今でもファンの間で語られるデザインとなっています。

ジョンストンは、「ジュマンジ」後、かねて興味を持っていたプロジェクトに関わります。それはアメリカでベストセラーになっていた1冊の本を基にした映画企画です。
本のタイトルは「Rocet Boys」高校時代にソ連の打ち上げた人類初のロケット、スプートニク号が夜空を通過するのを見た高校生。彼がロケットに携わる仕事に就こうと思い、家族や学校の先生に支えられ育つ感動の物語です。この本を書いたホーマー・ヒッカムは、その後NASAの技術研究員になりました。
ホーマーを取り巻く環境がドラマ的で誰もが感情移入してしまい、最後は涙してしまうストーリーは、自伝というよりも素晴らしい小説として売れ続けていました。

この映画のストーリーは、ジョンストンがそれまで手がけてきたようなVFXがふんだんにある映画でもないですし、子供向けのエンターテイメント作品でもありませんでした。むしろ、人間ドラマをきちんと演出しないと駄作として評価されかねない危険な賭けでした。映画スタジオもSFや子供向け映画専門のジョンストンがどこまでこのタイプの映画を演出できるのか疑問視していたようです。

しかし、ジョンストンは大方の予想を裏切り、素晴らしい感動作を作り上げたのです。映画は地味ですがおおくのお客さんが絶賛しました。そしていくつかの映画際で受賞しました。

ジョンストンは、この映画で監督として高い評価を受け、ルーカスの友人スティーブン・スピルバーグから声がかかります。スピルバーグは自分が監督してきた「ジュラシックパーク」シリーズの新作の監督をオファーしてきたのです。VFXも理解しドラマもきちんと演出できる数少ない監督としてジョンストンは今後もエンターテイメント映画から渋いドラマまで幅白い作品を作り続けていくでしょう。

ちなみにホーマー自身が書いた自伝「Rocket Boys」は、ロケットに夢中になった自身を例えてつけられたものです。
「遠い空の向こうに」の英語タイトルである「October Sky」は、主人公ホーマーが、その後の人生を変えるスプートニク号を見たのが10月だったことからつけられています。
そして、自伝「ROCKET BOYS」を並べ替えると「OCTOBER SKY」となります。
しゃれていますね。


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グリーンマイル [アメリカ映画(90s)]


The Green Mile (1999)

スティーブン・キング原作の名作。アカデミー賞最優秀映画賞ノミネート作品。

スティーブン・キングは、アメリカでずば抜けて人気のあるホラー作家です。短編から長編まで魅力のある作品を物凄いペースでリリースし続けており、最近ではネットでの発表も積極的に行っています。その数は数百作品にのぼります。どの作品をとってもクオリティは非常に高く、今後もキング人気は衰えないでしょう。

キングの作品はブライアン・デ・パルマによる「キャリー」(1976)を皮切りに殆どの作品が映像化されてきました。しかし、そのおおくは駄作として評価されています。好意的に受け入れられたホラー作品は「キャリー」、「シャイニング」(1980)くらいではないでしょうか。あとの作品は原作を読んだファンからみるとなかなか認めにくい映画となっています。

キングは、ホラー作品を書き続けていますが、実はホラーとはちょっと違った作品を数本発表しています。そして、80年代にそのうちのいくつかが映画化されました。まずはデビッド・クローネンバーグ監督による「デッドゾーン」(1983)です。この映画は低予算ながら原作の持っているテーマを見事に映像化しています。人に触ると、その人の将来が見えてしまうという力を持ってしまった男の悲劇をクローネンバーグは見事な演出で描いています。そして「スタンド・バイ・ミー」(1986)は、キングらしからぬ作品でありながら大ヒットします。「The Body」というタイトルだったちょっと暗い内容を、映画は有名な主題歌、当時人気のあったリバー・フェニックスを主演にして話題となります。そして、キングが単なるホラー作家ではなく、感動作も書けるのだということも世の中に知られるようになりました。

キングの原作は、その後も年代を問わず映像化され続けられます。しかし駄作がほとんどで、キング自身も呆れ返る状況が続くのでした。遂に、この状況に絶えきれなくなったキングは、自分で原作/脚本/監督をして、納得のいく映画を作ろうと試みました。そして完成した「地獄のデビルトラック」(1986)は公開されますが、それまでの駄作群に1作加えただけで終わってしまいました。

キングはホラー作家として、30年以上アメリカ文壇のトップを走り続けています。自分で監督した「地獄のデビルトラック」以降は、失望から映像にはあまり関わらず、原作はキングとは関係のないところで次々と映像化され続けていました。作品の内容は悪くても「キング原作」というだけで映画はそれなりにヒットし、テレビ番組はそれなりに高視聴率を取り続けていたのです。

1994年、あるフランス人脚本家が、キング原作の映画化を立案します。これまでのホラー原作ではなく「スタンド・バイ・ミー」のような非ホラー原作を選んだのは若きフランク・ダラボンです。ダラボンは、それまで「ヤング・インディー・ジョーンズ」やホラー映画の脚本を手がけてきており、原作を自分で脚本化します。この映画「ショーシャンクの空に」は、それまでのキング原作映画にはない、映像美と素晴らしいストーリー展開で話題になります。遂にキング原作の映画が正当に評価されたのです。

1990年代半ば。キングは、5冊からなる長編小説を出版します。タイトルは「グリーンマイル」。それまでのホラー色は影を潜め、裁判制度を扱った感動のエンターテイメント作品です。私はこの本が刊行されてすぐ、空港の本屋で全巻購入し、ニューヨーク/東京のフライトに持ち込みました。そして飛行機が離陸してから、5冊一気に読んでしまった記憶があります。あまりに面白く、食事もとらず読みふけったのです。それから数ヶ月後、この原作が映画化されることを聞きました。ワーナーブラザーズが大作として映画にするというのです。主演はおそらくトム・ハンクス。期待大です。さて、無実の罪の大男、コーフィーは誰が演じるのでしょう。そして、監督は?私は監督は「ショーシャンクの空に」で同じ刑務所を舞台にして素晴らしい映画に完成させたダラボン以外にいないと思いました。当然ハリウッドのプロデューサーも同じ考えだったようでタラボンがメガホンを取りました。

映画は1999年に完成。コーフィー役は俳優のボディガードをしていたマイケル・クラーク・ダンカンという俳優でした。完成披露試写はワーナーらしく派手で大きな規模でした。公開規模もそれまでのキング映画よりも大きく華々しかったです。公開はクリスマスシーズン(日本は3月)で、世界的に大ヒットします。そして、トム・ハンクス、マイケル・クラーク・ダンカン、タラボンはスター街道を歩いて行きました。

あの長いストーリーを見事に3時間にまとめあげ、基本的にほとんど変わらない印象にしたタラボンの筆力には感動します。そして難しい映像描写を美しく、時にはきつく演出する力も素晴らしいとしか言いようがありません。映画は、沢山の賞を受賞しました。アカデミー賞では最優秀作品賞、最優秀脚本賞、最優秀助演男優賞にノミネートされましたが、惜しくも受賞はできませんでした。

ダラボンは、「インディ・ジョーンズ4」の脚本を書いているとか、キングの原作を3度映画化するとか噂が絶えませんが、事実関係は不明です。最近だと「キングコング」にちょい役で出演しています。

キングは、この映画公開と時期を同じくして自動車事故に遭い、瀕死の重傷を負います。しかし、見事生還してメイン州の片田舎で精力的に執筆作業に没頭しています。2005年は、10作品が映像化され、2006年は6作品の映画化が決定しています。

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フォレスト・ガンプ 一期一会 [アメリカ映画(90s)]


Forrest Gump (1994)

アカデミー賞受賞のアメリカ人にはたまらない感動作。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで一躍大ヒット監督の仲間入りをしたロバート・ゼメキスは、フィルムによるオプチカル合成ではなくCGによる合成の可能性に早くから気づいていました。しかし、技術的にまだ実用レベルに達していなかったことから、「ロジャー・ラビット」では、アニメと実写の合成をオプチカルベースで完成させ、観客を驚かせました。

そして、やっとゼメキスが納得のいくデジタル合成の時代が90年代初頭に到来します。ゼメキスは、この新しい技術を取り入れた面白い企画を模索しはじめます。そんななかでかつてから映画化したかった企画をスタジオに持っていきます。既にヒット監督であるゼメキスにスタジオは快諾し、映画の制作が正式にはじまるのでした。これが「フォレストガンプ」です。

ストーリーは、なかなか斬新です。ちょっと頭の弱いフォレストの子供の頃から大人になるまでの数十年を追いかけて行くのですが、フォレストの年齢設定はアメリカのベビーブーム世代です。よっておおくの観客が自分の人生をフォレストの人生とダブらせて自分が行きてきた時代を振り返るのです。フォレストは意図せずに、ベトナムに出兵し、反戦運動に参加します。そして、意図せずに大統領と出会います。これらは、日本人から見るとちょっと都合がいいなあと思うのですが、きっとベビーブーマーにはかなり心に響く演出です。フォレストは、ベトナム戦争で知り合ったババと一緒にエビ漁をする夢を持ちます。そしてこの仕事で資金がたまり、たまたま投資したリンゴビジネスへの投資(Apple Computer株を購入していた)で大金持ちになるのです。そして知り合った女性と結婚まで行くのですが、彼女は不治の病(おそらくエイズ)に苦しみます。

このように、その当時に起こった歴史的で印象的な出来事に沿いながら、当時の世相もうまく取り入れています。このマクロな視点とミクロな視点の融合が絶妙で、壮大な一人の男の人生を一気に見せきってしまいます。

映画はまずストーリーです。ストーリーが面白くないと、どんなに斬新な映像でも有名俳優が出演していても面白くはありません。ゼメキスは、このようにアメリカ人が感情移入するストーリーを完璧に練り上げ、この難しいフォレストという役をトム・ハンクスに依頼します。ハンクスは完璧に演技をこなし、実際の映像はデジタル加工され、映画に挿入されていきました。そして素晴らしい映像が完成しました。映画はゼメキス映画定番の長いカットからはじまります。羽が揺れながら街を漂い、最後にはフォレストがその羽を手にするカットです。この羽はCG。まるで自然のように飛び回る羽は見事です。そして、ノースカロライナで撮影し、気をつけたしたベトナムのシーンやゲイリー・シニーズの足のない姿、大統領の映像にフォレストを入れ込むなどデジタル合成技術を多数取り入れています。

しかし、完成した映画を見て、スタジオはこの映画があまりヒットしないと思ったそうです。まず、物語の時間軸が長過ぎること、そして主人公がちょっと頭の弱い男で、さらに都合良く歴史的瞬間に居合わすことなど、欠陥がおおいという判断でした。そして映画はあまり期待されず公開を迎えました。

公開日、映画館には沢山のベビーブーマーが大挙押し寄せたのです。そして自分の人生を振り返るように各シーンで笑い、泣き、そして感動しました。映画は口コミで広がり、最終的には全米で大ヒットとなります。

1995年アカデミー賞では、最優秀監督賞(ゼメキス)、最優秀主演賞(ハンクス)、最優秀ビジュアル・エフェクト賞、最優秀編集賞、最優秀脚本賞を受賞します。

その後、ゼメキスはさらなるデジタル映像の新技術を使った「コンタクト」そして「ファット・ライズ・ビニース」の制作にとりかかります。ハンクスはアカデミー俳優となり、「アポロ13」「グリーンマイル」で主演が決まります。ハリウッドではデジタル合成がオプチカル合成に取って代わります。

この映画は、監督や俳優の人生にとって重要な作品だというだけでなく、映画制作にデジタルが本格的に使われるようになったということでも映画史に残る1本です。

尚、ババとフォレストが約束したエビ漁で取れたエビを食す店「ババ・ガンプ」が実際に出展されています。日本では東京と大阪にあります。映画を見たらエビを食べに行ってみてはいかがでしょう。

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アポロ13 [アメリカ映画(90s)]


Apollo 13 (1995)

アポロ13号の危機を忠実に描いた名作です。

監督のロン・ハワードは、役者の両親に育てられ、子役としてテレビドラマや映画で活躍していました。彼の初出演は1歳と6ヶ月の時に出演した「Frontier Woman」(1956)です。それ以来おおくの映画に出演しました。通常、子役は子役で終わるというのが定説ですが、高校、そして大学生となっても彼は俳優として人気を維持します。ハワード少年は、華やかな生活を拒否して、極めて普通の少年と同じ生活を送りました。彼は、公立の学校に通い、友達と普通に交流し成長しました。そして、南カリフォルニア大学に入り、俳優を続ける傍ら自分の夢である映画監督の勉強をはじめます。

ハワードは、同じ南カリフォルニア大学を卒業したジョージ・ルーカスの映画「アメリカン・グラフィティ」(1973)に出演し、役者としてさらなるキャリアを築きますが、監督になるという夢は忘れることが出来ませんでした。その後、彼はTVシリーズにいくつか出演しますが、監督業に専念します。そして何本か監督をして、遂に「スプラッシュ」(1984)で大ヒット監督になりました。当時サタデーナイトライブで人気のあったトム・ハンクスが主演の恋愛コメディです。このヒットを受け、ハワードは「コクーン」(1985)「ウィーロー」(1988)などヒット作を連発します。

彼はハリウッドでもヒットメーカーと呼ばれる名監督になりました。自分でIMAGINEという映画製作会社を設立し、意欲的に映画を作り続けます。そして「バックドラフト」(1991)「遥かなる大地へ」(1992)という大作を世に送り出します。

演出家として脂が乗った彼が次に製作を決意したのは、アポロ計画の映画でした。当初は誰もが人類史上初めて月に行った「アポロ11号」の史実を映像化するものだと思い込んでいました。しかし、ハワードが目を付けたのは、既に忘れ去られていたアポロ13号のお話でした。

アポロ計画は、当初世界的なニュースになり、打ち上げ毎に世界中のテレビが中継をしました。それだけ注目度が高かったのです。しかし11号が月に着陸を果たすと、それ以降は皆興味を失い、ロケット発射はテレビ中継すらされなくなってしまいます。そんな中、注目されず13号が打ち上げられます。その13号、実はとんでもないトラブルを起こしてしまいます。宇宙空間で操縦不可能に陥ってしまうのです。誰もがアポロ13号の帰還は不可能だと思いました。しかし、NASAはスタッフを総動員してアポロ13号とその乗員を救出すべく動き出すのでした。

この事件は、テレビで放送されました。皮肉にもトラブルが起きてから初めてマスコミが13号を注目したのです。

映画は、13号を救出した男達を描きます。主人公はアポロ13号の乗組員ではなくNASAのスタッフなのです。この発想には驚かされました。そしてエド・ハリス演じるNASAのチーフ、クランツには誰もが涙しました。

ロケット発射映像や宇宙空間の映像はILMが担当しました。当時の映像をベースにモデリングとCGで作られた映像はまるでドキュメンタリーのようにリアルで美しく仕上がっています。この派手ではない映像が映画のドラマ性をさらに高めています。

主演は「スプラッシュ」で仕事を共にしたトム・ハンクス。脇をビル・パクストンとケビン・ベーコンが固めています。この二人はちょっとだけ演出されています。実際の宇宙飛行士はどんなことがあろうと感情的にはなりません。しかし彼らはドラマ的に感情をあらわにします。アポロに乗れず、地上でシミュレーションをするケンにはゲイリー・シニーズ。シニーズの控えめでその裏に隠された熱い思いを醸し出す演技は見事です。

映画は当然大ヒットします。そして「Houston, We have a problem」というコピーは、何度も使われ話題になりました。

DVDのメイキングには、本当の「アポロ13」のドキュメンタリーが入っていました。この中で、本物のクランツ氏が当時を語り涙するシーンはとても感動的です。映画を見た後、このドキュメンタリーを見ると物凄く感動するのです。そして、この映画が公開されてから、はや10年が経ちました。そして記念DVDが発売されます。さてどんな内容なのか、とても楽しみです。

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ジュラシック・パーク [アメリカ映画(90s)]


Jurassic Park (1993)

マイケル・クライトンの原作を映像化したアドベンチャー映画です。

スティーブン・スピルバーグは「インディ・ジョーンズ」シリーズ撮影後、暫くは地味な映画の監督をしていました。「オールウェイズ」(1989)、「フック」(1991)など個人的な思い入れの強い映画を監督してそれまでの超大作から数年間離れていたのです。恐竜好きだったスピルバーグは、その延長線上で、マイケル・クライトンの原作に出会います。彼は早速製作に意欲を示します。自身の映画製作会社アンブリンエンターテイメントで企画開発をはじめたのです。プロデューサーは今まで何本も組んでいるキャサリーン・ケネディです。クライトンは映像化に快諾し、脚本も書くことになりました。

スピルバーグは当初恐竜をストップモーションで撮影しようと思っていました。恐竜の人形をコマ撮りで撮影するのです。勿論、ストップモーションと言えばスタン・ウィンストン・スタジオに発注するのが一番良いので、すぐにオファーしました。スタン・ウィンストンのチームは人形のコマ撮りという手法でハリウッドでは数十年の実績がありました。彼らは早速恐竜について調べ始め、スピルバーグが満足する人形を作り始めました。そして、役者とからむ恐竜に関しては原寸大の巨大な動く恐竜を作ることになり、モックアップの制作がはじまりました。これはアニマトロニクスといわれる手法です。

そんな時、スピルバーグは友人のフィル・ティペットからコンピュータ・グラフィックスで作る恐竜について話を聞きます。それまでもCGIで作られたクリーチャーはありましたが、リアルさに欠けていました。どうみてもCGで、観客はCG映画に失望していましたし、スピルバーグも観客を喜ばすことの出来ない技術を使う訳にはいきませんでした。しかし、ティペットの提案してきたCGIによる恐竜はとてもリアルで、本物の恐竜を撮影しているような映像が作れることが証明されたのです。

スピルバーグは、この段階で恐竜をCGIで作ることを決断します。これを聞いたスタン・ウィンストンのチームはとても落胆したそうです。しかし、アップのシーンに関してはウィンストンのアニマトロニクスを使うことは変わらなかったので、実寸大の恐竜は作られることが決定しました。

映画は、恐竜の全身が映るシーンはCGI、役者とからむシーンはアニマトロニクスという感じで制作を分離し、作業が進みました。CGIチームは、ウィンストンのチームが人形で作ったビデオコンテを元にCGで映像を作って行きました。ティペットのCGチームは、ウィンストンのアニマトロニクスで作られた映像に感心し敬意を払いました、結局この2つのチームはうまく連携をとって恐竜のシークエンスを完成させて行くのでした。

キャストは、ちょっと地味ですが演技がしっかりできる俳優を選んでいます。これは、恐竜が絡むシーンのほとんどは、そこに大きな恐竜がいないわけで、しっかりと演技のできる俳優を優先したそうです。そして合成カットがおおいため、役者は延々と待たされたり、何度も同じ演技をさせられたりする苦痛を耐えなければなりません。この試練を理解してくれる俳優はそれほどおおくなかったはずです。

スピルバーグのお遊びキャスティングとして、ジュラシック・パークを作るハモンド役に映画監督のリチャード・アッテンボローを起用しています。彼は「ガンジー」(1982)、「遠い夜明け」(1987)などでアカデミー賞を受賞した名監督で、イギリスではサーの称号を与えられています。スピルバーグは「未知との遭遇」の研究者役でフランスの監督フランソワ・トリフォーをキャスティングしています。

スピルバーグは、「激突」以来得意としている、ホラーの演出を多用し観客を恐怖に陥れるという演出方法を選択しました。有名なスピルバーグという冠がついているのでアドベンチャー映画と認識されていますが、人が食べられたり、恐竜に襲われるシーンは、ちまたのホラー映画よりよっぽど怖い演出です。特に、T-Rexが近づいてくるときの水の振動は後世に語り継げられる名演出です。

スピルバーグは、この映画と平行して次の作品の製作に入っていました。それは彼が長年作りたかった「シンドラーのリスト」です。「ジュラシック・パーク」の撮影が終了するとすぐに彼はポストプロダクションをキャサリーン・ケネディに任せ、プラハに飛びます。そして「ジュラシック・パーク」とは真逆のシリアスな歴史映画を撮り始めたのでした。
スピルバーグは、友人のジョージ・ルーカスからルーカスフィルムが開発したシステムを渡されました。この機械は、ハリウッドで行われている編集を衛星回線を通じヨーロッパでチェックできるシステムでした。スピルバーグは昼間は「シンドラーのリスト」を撮影し、夜は、アメリカから送られてきた編集映像をチェックしました。

最終的に、映画の出来映えは誰も予想が出来ないほどリアルになりました。そして、映画は世界的に大ヒットします。映画館では、誰もが恐竜の映像に驚かされました。どこまでが作り物なのか、それがCGIなのかアニマトロニクスなのか全くわかりませんでした。そしてホラー映画ばりの怖い演出に皆がただただ怖がったのです。

その後、続編の制作が決まりました。パート2はスピルバーグが引き続き監督します。それがThe Lost World : Jurassic Park (1997)です。そして、監督が代わりJurassic Park III (2001)も制作されヒットしました。2006年にはシリーズ4作目となるJurassic Park IVが公開される予定です。

続編は、それぞれ新しい手法が取り入れられ観客を驚かせてくれましたが、やはり第一作のインパクトはとても強く、これを超えるまでに至っていません。

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タイタニック [アメリカ映画(90s)]


Titanic (1997)

この映画はジェームス・キャメロン監督が全精力を投入し完成させた映画興行史とアメリカ映画芸術史に刻まれた大作映画です。

ジェームス・キャメロン監督は、若かりし頃低予算映画の帝王ロジャー・コーマンの下、特殊映像を制作するスタッフとして働いていました。そこでは、とにかく安く面白い映像を作ることを鍛えられました。そして、低予算SF映画の監督をするチャンスに恵まれます。

当時スティーブン・スピルバーグ監督が29歳で撮影したパニック映画「ジョーズ」が大ヒットし、それに伴う亜流パニック映画が量産されました。殆どの映画が駄作だったのですが、スピルバーグも認める低予算パニック映画が誕生しました。それが「ピラニア」 (1978) です。「ピラニア」はジョー・ダンテという若い監督が演出していて予想外のヒットとなりました。そして続編が作られることになったのです。続編の製作に関してジョー・ダンテは参加せず、別の監督探しをすることになりました。そこで候補になったのがジェームス・キャメロンです。

キャメロンは、低予算ながら空を飛ぶピラニアを作り出し観客を驚かせます。この作品「殺人魚フライングキラー」 (1981) をステップに、自らが企画したSFアクション映画の制作に取りかかります。これが「ターミネーター」 (1984) です。「ターミネーター」は有名なキャストがいなかったにもかかわらず世界的に大ヒットします。そして、アーノルド・シュワルッツェネッガーと共にスターの仲間入りしたキャメロンは「エイリアン2」 (1986) 「ターミネーター2」 (1991) とメガヒット作を監督し、世界で最も稼ぐ監督となりました。

キャメロンは、ここで念願の映画製作に没頭しはじめます。この企画が「タイタニック」です。彼は子供の頃カナダ、トロント郊外で育ちました。近くにはあのナイアガラの滝があり、あの凄まじい瀑布をよく見ていたそうです。よって「水」に対する特別な思いがあったようです。彼の作品には「水」がよく登場します。「アビス」はそのまま水をテーマにした作品です。「タイタニック」も水に関係している作品です。

企画当初、「タイタニック号」は謎に包まれていました。どこに船体が沈んでいるのかさえわかっていませんでした。キャメロンは、入手できるデータを収集し、船が出港してから沈没するまで、そして生き残った人たちの証言などを調べ上げ時間軸に当てはめていきました。そんな地道な作業をしているさなか朗報がもたらされます。大西洋で本物のタイタニック号が発見されたのです。キャメロンはすぐ潜水艇を借り、海に潜りました。そこには、夢にまで見たあのタイタニック号が静かに眠っていたのです。キャメロンはさらにリサーチを進め、タイタニック号がなぜ沈没したのか、乗員乗客がどんな人生を送ってどのように死んでいったのかまで調べ尽くしました。

これらデータを元に、映画を再構築していったのです。主人公は、実在の人物ではありません。メインキャラクター達はリサーチから見えてきた名もない3等客室にいた(そしてほとんどが溺死してしまいます)乗客です。彼を中心にリアルに沈没までを描くという壮大なストーリーです。ミクロの視点からマクロな事故を描くというのは、確かにパニック映画の王道ではありますが、あの巨大客船が沈没していく様をどうやって映像表現するのか誰もが疑問に思いました。

キャメロンは、自身が作ったVFX会社デジタル・ドメインのスタッフをフル稼働し、実写とCGを組み合わせることで映像化が可能だと確信していたのです。そして、ロジャー・コーマンの下で低予算映画を作っていたときの経験を活かし、費用を削減することにも勤めました。

撮影は実際のタイタニック号とほぼ同じ大きさのセットを作るところからはじまりました。ただし、このタイタニック号は船を縦に割ったような形をしていました。要は船を半分しか作らなかったのです。あとの半分は撮影してフィルムを裏返しにすることで成立させました。よって反対側の撮影の場合は、船に書かれた文字やマークは裏返しで撮影されました。役者の髪型や衣装も裏返して作られました。まるで鏡の中の世界のような撮影現場だったのです。
船は実際は動きませんでした。映画で動いて見えるのは、周りをCGで描いているからです。船と並走するイルカもCGです。船全体が海を進むシーンは殆どCGです。船の甲板を歩く乗客もCGです。
そして船が沈没するアップのシーンはセットで撮影しています。カメラが引いた大きな映像はCGです。カットごとにCGと実写の映像をうまく使い分け映画を見る観客はその違いを意識することはありません。この演出は見事です。俳優に演技を付けることだけでなく特殊効果に関しての知識にも詳しいキャメロンだからできる技です。

キャメロンがいろいろな節約術を持ってしても、沢山のエキストラを使った撮影は時間がかかり、CGの制作も膨大な量となりました。そして映画は完成が間に合わず、公開自体が延期になってしまうというとんでもない事態に陥ってしまいました。アメリカの新聞や雑誌では、「タイタニック沈没」という見出しが掲げられ、キャメロンの映画は完成しないだろうという憶測が流れ始めました。キャメロンは自身の監督料を返上し、それを制作費に充て映画制作を続行しました。

そして遅れること半年、完成した「タイタニック」は誰もが驚く映画となっていました。予想していたよりも遥かにダイナミックな映像、そして素晴らしい演出、実際に起こった事故のデータ通りの沈没シーン....とにかく予想を大きく上回る大傑作となって公開されたのです。当然、批評家を含めほぼ肯定的な意見で溢れ、興業収入もうなぎ上りで出資したフォックスも一安心しました。続いて公開されたアメリカ以外の国でも大ヒットし、200億円を超えた制作費は見事に回収しました。

そして、さらに凄い結果が待ち受けていました。1998年アカデミー賞で11部門受賞という史上最多受賞を成し遂げてしまいます。
キャメロンは、正真正銘の「King of the World」になってしまったのです。そして監督料は失ったものの、キャメロンは莫大な成功報酬を得ることになります。

その後、キャメロンはメジャー映画の監督をしていません。「タイタニック」の制作で全精力を使い果たし、心身ともに疲れ果ててしまったようです。「ビスマルク号」「タイタニック号」といったドキュメンタリーの制作や「ダークエンジェル」のようなテレビドラマを少しだけ手がけ沈黙を守ってきました。しかし、遂にキャメロンが動き出します。サイボーグが主人公のSFアクション映画の制作が正式に発表されました。タイトルは「バトル・エンジェル」。公開は2007年の予定です。頂点を極めてしまったキャメロン第2の監督人生がスタートします。

新作公開前にキャメロンはファンにプレゼントを用意していました。「タイタニック」特別版DVDです。実はキャメロンはタイタニック撮影時に、時間軸に沿ったストーリーを撮影していました。映画ではその大半をカットしてしまっていたのです。これら今まで見ることの出来なかった映像や撮影裏話などを収めた究極のDVDが発売されます。キャメロンはこのDVDの制作に数年を費やしていたのです。スタッフによるとキャメロンはこのDVDの為に自らプロデューサーをして、新たなメイキングや長尺版の編集に没頭していたそうです。つまり「タイタニック」以降、ゆっくり休養を取っていたのではなく、DVDを作り続けていたのでした。THX社のスタッフによると、キャメロンは映画のマスタリング作業にも立ち会っていたようです。この究極版「タイタニック」DVDは、これまた映画史に残るDVDになりそうです。

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