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トップガン  [アメリカ映画(80s)]


TOPGUN (1986)

懐かしい!と思う方、30代ですね。おそらく20代の方は、あまり思い入れがないでしょう。
この映画のタイトルと音楽を聴くと、30代は熱くなってしまうのです。若かりし頃を思い出すのです。

公開当時、かっこいい音楽とかっこいい飛行機、そして話題になりはじめたトム・クルーズが揃い、若者は皆映画館に足を向けました。当時のことを知る人にとってはついこの前の出来事のように鮮明に覚えているはずです。公開時、町にはMA-1を着た人々が溢れました。サントラも売れて、皆がウォークマンでケニー・ロギンスの「Danger Zoe」を聞きました。この現象は日本に限ったことではなく全世界的なブームでした。

このブームを作ったのが、「フラッシュダンス」で映画と音楽を融合したプロデューサー達でした。ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーの2人は、CM監督として活躍していたトニー・スコットを起用し、それまでにない美しい映像を重要視しました。もともと音楽に強い2人は音楽まわりも権利処理を行います。もちろんアメリカ空軍の協力を得ることに成功し、主演は「アウトサイダー」で話題だったトム・クルーズに決まりました。この映画は当時、当たる要素を全て詰め込むことに成功します。

パラマウント映画は、この映画を成功すると確信し大規模な宣伝を行います。派手な予告編とCMは、瞬く間に世界中の若者の心を掴んでいったのです。

今、見直すと、とてもシンプルなストーリーだということに気づきます。しかし、つまらないのではなく今でもとても面白く見ることができます。そして、今ではハリウッドの王道になったストーリー構成もしっかりしています。要は普遍性を持ったテーマをわかりやすく描きつつ」、若者が好きな要素を適合させていったのでしょう。主人公マーベリックの正義感と無鉄砲さはオープニングシークエンスで十分に理解できますし、その後の恋愛もとても気持ちがよいです。

映画は大ヒットしました。そして、トム・クルーズはスター街道を歩み始めます。クルーズは、二人のプロデューサーと共に「デイズ・オブ・サンダー」を制作し、これまたヒットします。その後、「デイズ・オブ・サンダー」で共演したニコール・キッドマンと結婚します。キッドマンとは、その後離婚してしまいますが、クルーズ人気は今も健在です。

ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーは、その後「バッドボーイズ」「クリムゾンタイド」「ザ・ロック」といったアクション大作をプロデュースします。いずれも大ヒットし、有名プロデューサーの仲間入りをしますが、ドン・シンプソンは「ザ・ロック」製作中に他界してしまいました。ブラッカイマーは、その後ひとりで「アルマゲドン」「タイタンを忘れない」「ブラック・ホーク・ダウン」などをプロデュースし、現在ハリウッドで最も力のあるプロデューサーのひとりとなりました。

監督のトニー・スコットは、ブラッカイマーと組み「デイズ・オブ・サンダー」「クリムゾン・タイド」を演出しました。最近は、兄のリドリー・スコットと作った映画製作会社スコット・フリー・プロダクションで精力的に映画制作を行っています。

映画「トップガン」に大ヒットにより、当時おおくの若者が人生に影響を受けましたが、制作した人々もその後の人生が変わる程影響を受けているのです。

公開からはや20年が経ってしまいました。これを機に映画館ではデジタルリマスター版が上映され20周年特別版DVDが発売されます。いまだに人気の衰えない作品です。

<追記 2005/09/16>
東劇のスクリーンで20年ぶりに「トップガン」を見てきました。今見ると驚くことがいくつかありました。まず脚本が非常に良く出来ていることを発見したのです。シンプルなストーリーだと思っていたのですが、映画には葛藤や仕事に対する気持ち、友情など今見ても新鮮な要素が沢山詰まっていました。これには驚きました。次に飛行機の映像です。当時はCGなどなかった時代ですから、基本的には実際の飛行機を撮影しています。これがリアリティがあり興奮しました。CGだとなんでもできるのでどうしても演出しすぎる傾向にあります。しかし「トップガン」はありえない飛行シーンはひとつもなくじつに現実味を帯びて描かれているのです。最近ヒットしなくなったハリウッドアクション映画の欠点が浮き彫りになる貴重な体験となりました。

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バック・トゥ・ザ・フューチャー  [アメリカ映画(80s)]


Back to the Future (1985)

監督のロバート・ゼメキスと俳優のマイケル・J・フォックスを世界的に有名にしたエンターテイメント作品の名作です。

ロバート・ゼメキスは、小作品「抱きしめたい」や「ユーズドカー」の監督をする前から、この企画を友人のボブ・ゲイルと暖めていましたが、スタジオは面白いとは思わず、製作費集まりませんでした。それなりにコストがかかるSFなのにコメディという内容がビジネス的に難しいということが原因でした。そんな中、「ユーズドカー」で才能を認めてくれたスティーブン・スピルバーグは、ゼメキスの企画にGOサインを出します。スピルバーグが立ち上げた製作会社アンブリンエンターテイメントを母体とし、配給をユニバーサルに持って行ってくれたのです。当時、大人気だったスピルバーグが持ち込んできた企画はすんなりと通り、映画が製作されることがきまりました。(この後「ユーズド・カー」以降「ロジャー・ラビット」までゼメキスとスピルバーグの関係は続き、ゼメキスの殆どの映画がスピルバーグのアンブリン・エンターテイメント製作となります。)

実際に撮影が行われるまで、時間がたっぷりあったので、脚本は練りに練られとても面白いものになっていました。そして、当時の大統領が俳優出身のレーガンとなり、さらなる要素が詰め込まれました。撮影にかかる資金も十分に用意されました。準備は完璧、いよいよ撮影の開始です。

主演のマーティーには、当時若手俳優のホープだったエリック・ストルツをキャスティングし、順調に撮影が進んで行きました。しかし、フィルムラッシュッシュ(撮影済みのOKテイクを脚本と同じようにつないで試写すること)を見たゼメキスは唖然とします。撮影時、ちょっとだけストルツの演技が固いなあと思っていたゼメキスは、ストーリーに合わせて進むストルツの演技に疑問を抱いてしまいます。これは、スタッフ全員が感じた違和感でした。すぐにエクゼクティブプロデューサーだったスピルバーグが試写室に呼び出されます。ここで映画史に例のない大決断が行われたのでした。

「主役を交代しよう」

おそらく、この決断はエリック・ストルツだけでなくこの作品に関わった誰もが辛かった判断です。結局、当時テレビのコメディドラマで人気だったマイケル・J・フォックスが新しいマーティー役に決まりました。実はフォックスは、オーデュションの段階で最後まで残っていました。しかし、テレビ番組の収録があるためスケジュール的に無理だと判断されていました。急に映画の主役の依頼が飛び込んできたフォックスは驚き、そして快諾します。
スタッフは、撮影したロケ地へ戻り、壊してしまったセットを立て直しました。そして、ストルツ以外のキャストは再び集められ、もう一度同じ演技を別のマーティと演じるはめになりました。(キャストはこのあとパート2、3でまたまた同じ演技をさせられます)フォックスは昼間はテレビドラマの撮影、夜は映画の撮影をいう超ハードなスケジュールをこなすことになります。しかし、スタッフ、キャストは総出で頑張り続けました。

映画はこのようにほぼ2本分の手間をかけられ完成したのです。撮影を2回行ったことで、1回目の反省を受けた映像はさらに磨きがかかっていました。完成したフィルムは、密度の濃いエンターテイメント映画として遂に完成します。
映画はアメリカで公開され大ヒットします。85年夏の目玉となり映画史に残る興行収入を上げる記録を打ち立てました。日本ではクリスマス公開となり、同じくスピルバーグ製作の「グーニーズ」と公開が重なりました。85年の冬はスピルバーグ旋風が吹き荒れた年末・年始となりました。テレビ俳優の起用(エリック・ストルツの代役でマイケル・J・フォックスが主演)と地味に思えた作品でしたが、アメリカ同様大ヒットしました。

映画は、公開後続編の製作が決定され、再びキャストとスタッフが集められました。当然続編も大ヒットしました。現在ユニバーサルスタジオ(テーマパーク)には「Back To The Future The Ride」という施設があり、映画の後の世界を体験できるようになっています。このライドの監督はシリーズのVFXを担当したダグラス・ロランブル。映像制作は日本のイマジカが担当しています。

幾多の困難をバネにし企画を映画化したゼメキスは、このあとシリーズ以外にも「フォレスト・ガンプ」「ロジャー・ラビット」等数々のヒット作を作り上げ、ハリウッドのA級監督リストに載る大監督となりました。彼は今でも精力的に新技術を導入したエンターテイメント作品を作り続けています。

音楽を担当したアラン・シルベストリは、映画とともに大ブレイクしました。特にパート1のサウンドトラックはヒットチャートにも入りました。パート1、2,3そしてユニバーサル・スタジオの「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」のテーマまで手がけ、「Back To the Future」シリーズの陰の立役者です。シルベストリは、現在でも一貫してゼメキス映画の音楽を担当しています。

代役でマーティを演じたマイケル・J・フォックスは、この作品で世界的なスターとなり、以後多くの映画に出演しました。現在は病気と闘いながら活動を続けています。ドク役のクロストファー・ロイドはゼメキス作品を中心にエキセントリックな役を怪演しています。

この作品に関する詳しい内容は、私が制作している「バック・トゥ・ザ・フューチャー ファンサイト」をご覧ください。
http://bttfuture.hp.infoseek.co.jp/


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死霊のはらわた [アメリカ映画(80s)]


The Evil Dead (1981)

映画史に残るホラー映画のマスターピース。今更語る必要もありませんが、この映画がその後の映画界に与えた影響は計り知れません。サム・ライミ監督の独特の演出技法、不思議な捉え方をするカメラアングル、スピード感のある編集....近年の映画制作にはこれら技法が使われていることがよくあります。

サム・ライミは、ミシガン州で生まれ、ミシガン大学に入学しました。そこで知り合ったのが、コーエンという風変わりな兄弟とブルース・キャンベルというちょっとカッコいい俳優志望の学生でした。彼らは意気投合し、自主制作映画を次々と作り続けます。予算の制限もありホラーというジャンルがおおかったのですが、スピード感のあるライミの演出とひねりの利いたコーエン兄弟の脚本はその頃から健在だったそうです。

サム・ライミは、このチームで32分の短編ホラーを完成させます。この映画は「Within The Woods」というタイトルで学生の間では話題になりました。そして、資金をかき集めスケールアップした映画を完成させようと言うことになり、「The Evil Dead」の撮影が決定したのです。

スタッフは、ライミの兄弟やキャンペル、コーエンの家族などが参加し、数千万円という予算ではじまりました。しかし、撮影場所である山小屋へ続く道がぬかるんでいて、そこにひいた砂利代で制作費の半分近くがなくなってしまいました。彼らはお金ではなくアイデアを費やします。カメラが池をなめるように進むカットは、ステディカムで撮影したかったのですが、木の枝を二人で持ち、真ん中にカメラを据えるというローテク(シェーキーカムと呼んだ)技術でしのいでいます。Evil Deadと化した役者のメイクは短時間で済ませるためキッチン用の手袋など簡単に手に入るものを多用しました。

映画自体はかなりの低予算で完成しましたが、そこに込められたエネルギーは、今映画を見ても伝わってきます。映画は予想通り大ヒットし、世界中で公開されました。日本ではヘラルド映画が上映権を得、小規模に上映が行われましたがヒットしました。そして映画関係者やアーティストに支持され口コミで話題になりました。

私が一番好きなシークエンスは、主人公アッシュが婚約者にペンダントを渡すところです。このシークエンスの前に彼女が近づくと寝ているふりをするシーンがあります。この幸せな二人を表すシーンと対になる悲しいシークエンスはライミの冴えた演出の代表例です。そして、このシーンでキーになるペンダントは後々までストーリーに絡んで行きます。

映画はその後、続編が制作され、パート2が「Evil Dead 2 : Dead by Down」(1987)、パート3が「Army of Darkness」(1993)というタイトルです。日本ではパート3だけ「キャプテン・スーパーマーケット」という珍題が付けられとても悲しい思いをしました。

サム・ライミは、その後いくつかのホラー映画を監督し、今や「スパイダーマン」でトップ監督の仲間入りを果たしました。Celia Abrams、The Master Cylinder、R.O.C. Sandstorm、Roc Sandstorm、Alan Smithee Jr.という別の名前で様々な制作活動に参加しています。最近では「The Juon」などをプロデュースしドル箱映画人として人気を博しています。

コーエン兄弟は、独自の道を歩み「ファーゴ」でアカデミー賞を受賞しました。ライミとの交流は今でもあるようで、コーエンの出世作「未来は今」ではライミは第2監督をしています。

ブルース・キャンベルは、その後のライミ作品には必ず出演しています。そしてコーエン兄弟の映画にも時々カメオ出演しています。昨年発売された「The Evil Dead」のSpecial Edition DVDの特典映像にはキャンベルの今が収録されていました。彼はテレビドラマに出演しながら「ホラー映画」のコンベンションに招待されサイン会などを行い収入を得ているようです。ちなみに「スパイダーマン」では名付け親のリングアナウンサー役として登場していました。

ライミは2006年に「The Evil Dead」のリメイクを予定しています。どんな映画になるのか今から楽しみです。


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ブレードランナー [アメリカ映画(80s)]


Blade Runner (1982)

SF映画の歴史を変えた作品はいくつか存在しますが、この作品は映画だけでなく、小説、アニメ、絵画など芸術作品にとどまらず、建築や工業デザインにまで影響を与えました。これは「2001年宇宙の旅」と同じような偉大なことです。

「ブレードランナー」は、フィリップ・D・ディックの有名な短編小説「Do Androids Dream of Electric Sheep?」を基に作られた映画です。この一見風変わりなストーリーを制作するにあたり、プロデューサーは何度も様々な問題にぶつかりました。企画の変更、脚本の変更などなかなか前に進まず何度も作業が頓挫しています。

そこに「エイリアン」で名を馳せたリドリー・スコットが監督として登場し、シド・ミードがビジュアル全面の監修をすることになり企画は好転します。ビジュアル重視のスコットは、彼独自の世界観をストーリーに加え、あの幻想的な映像を構築していくのです。しかし、撮影現場ではイギリス人クルーとアメリカ人クルーの対立や、主演ハリソン・フォードと監督の確執などの問題が勃発し、完成はほど遠いと思われたそうです。

映画はなんとか撮影が終了、いよいよ編集の段階で、またまた問題が起こりました。監督の編集はあまりにわかりにくく、一般客へのテスト試写後、大幅に変更されました。そして主人公デッカードのナレーションが付け加えられました。さらに難解なラストシーンを少しでもハッピーエンディングに作り直そうとプロデューサーは「シャイニング」で使われなかった森の映像を付け足しました。監督は納得できなかったそうですが、当時まだまた若手の監督だったスコットはプロデューサーカットに同意したそうです。

そして、いよいよ公開。しかし結果は惨敗で制作費の回収はできませんでした。

ちょうど80年代初頭は世の中にVHSが普及し、世界中にレンタルビデオ店がオープンした頃です。それまでは映画は映画館で見た後は殆ど見ることが出来ませんでした。しかし、ビデオの普及で気軽に映画を楽しめる時代が到来したのです。

「ブレードランナー」が話題になるのは公開から1年経過した頃です。アメリカの大学のある街でビデオが高回転でレンタルされ始めます。学生達は口コミでこの映画の凄さを語りだしました。そして、それは雑誌を動かしテレビメディアまで動かして行ったのです。結果公開から10年すると、この映画は伝説の映画として記憶されるようになったのです。

メディアが話題にすると、撮影時の秘話がスタッフから漏れ始めました。実はディレクターズ・カットが存在することや、一般客へのテスト上映をしたバージョンには、見たこともない病院のシーンがあったことなどです。なんとアメリカ版とアメリカ以外で上映されたバージョンにもいくつかの差異が見つかりました。結局、後に「ブレードランナー」には7バージョンあることが判明します。そして、これら複数バージョンを見たいというファンの声は大きくなって行きます。

結局有名になったりドリー・スコットは、倉庫に眠っていたフィルムを使い新たにディレクターズ・カットを制作します(過去に作られた真の感得編集版とは異なります)。そして公開し、大ヒットしました。現在DVDなどで見ることができる「ブレードランナー」はこのバージョンです(日本では最終版という表記)。

「ブレードランナー」は、現在でも評価が高く世界的に映画史に残る名作ベスト10に入る高い人気となっています。私は、今までに6バージョン見ていますが、個人的には、アメリカで初めて劇場公開されたプロデューサー版が一番好きです。デッカードがレプリカントを追うという設定と、レプリカントとの恋愛の設定が平行に進み、次第に追いつめられるレプリカント達が感じる「死」の恐怖と、自分が愛するレプリカントが「死」んでしまうのではないかという恐怖が膨らんでくるラストはコントラストが見事で何度見ても感銘を受けます。他のバージョンはデッカード自身もレプリカントなのでは、という匂いがつきやや雑駁な感じです。映像は、とても美しいのですが、私が選ぶベストショットは、デッカードが水を飲むと、口から血が流れ水に溶けるところです。おそらく全ての映画の中でもベストショットではないでしょうか。ヴァンゲリスによる音楽もこの映画を伝説にした要因のひとつです。


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インディ・ジョーンズ 最後の聖戦 [アメリカ映画(80s)]


Indiana Jones and the Last Crusade (1989)

「魔宮の伝説」から5年の歳月をかけて完成したシリーズ完結編です。当初、映画はシリーズが進む毎に設定が古くなっていくといわれていました。実際「レイダース」の設定は1936、「魔宮の伝説」は1935年です。よって、「最後の聖戦」の時代設定は1930年代前半の予定でした。しかし、いっこうに素晴らしい脚本が完成しなかったため、この時代設定は忘れ去ることになりました。結果、設定はインディの少年時代から始まり、メインストーリーは1938年となりました。舞台はイタリア(ベニス)とザルツブルグ、ドイツ(ベルリン)で、第2次大戦の影響が色濃いストーリーです。

この映画で語らなければならないいくつかのエピソードがあります。

まず、インディの父親が登場することです。これまで謎だったインディと父親の関係が浮き彫りになります。前2作品はインディとパートナーとなる女性の恋愛がサイドテーマとして存在しましたが、本作では父親と息子の関係がサイドテーマとして語られます。007シリーズを目指して製作が開始されたインディ・シリーズとしては、ちょっと異質なのですが、ルーカス=スピルバーグは粋なことをしてくれました。父親役にショーン・コネリーをキャスティングしたのです。ご存知の取りコネリーは初代ジェームス・ボンド、そう007なのです。映画「インディ・ジョーンズ」は映画「007」の息子なのです。

つぎに、少年時代のインディを描くことで、今まで知られていなかった事実関係が明らかになります。例えば、なぜインディが蛇嫌いなのか、なぜあんな格好の服をきているのか、なぜあごに傷があるのか....。この少年時代のインディを演じているのが、伝説の俳優リバー・フェニックスです。彼は当時から絶大な人気を誇っており、興行に相当貢献したと言われていますが、演技も見事で、インディらしい少年を活き活きと演じています。彼は93年にキアヌ・リーヴスが経営していたLAのクラブ、Vaiper Roomで死去しています。

映画自体は、ルーカス独特のストーリーラインが復活、そしてスピルバーグの抑えた演出が冴えています。私が個人的に好きなのは、インディの少年時代から大人の時代に乗り変わる演出です。日本ならリバー・フェニックスの演技をもっとだらだらと見せるでしょう。しかし、本作ではパンチ一発で時代を転換させています。そして観客は一気に1938年のストーリーにのめり込んで行くのです。

この作品以降、シリーズは中断し、15年近くが経過しています。2005年現在、パート4の製作が発表されていますが、ハリソン・フォードの年齢の問題や、ストーリをどう練るのかといった課題があり、実現化は難しそうです。


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インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説 [アメリカ映画(80s)]


Indiana Jones and the Temple of Doom (1984)

シリーズ第一作目の「レイダース」が大ヒットし、予定通り続編の製作が決定しました。この作品は前作に比べスピルバーグ色が強くなり、よりエンターテイメント性を増した演出が見所です。ただし、スピルバーグはこの映画について「失敗作」と考えているようで、この映画から得たのは、現妻であるケイト・キャプそショーだけだと語っています。

映画はとても面白く、ジェットコースタームービーとして楽しめます。とくにトロッコのシークエンスや洞窟内を水が襲ってくるシーンは見事で、当時のILMの最新技術を駆使して撮影されています。当然、スピルバーグらしいハラハラさせる演出も見事で、もうダメだと思ってからの畳み掛けるような驚かせ方は彼の映画の中でも飛び抜けた出来映えとなっています。最近は、このような楽しい娯楽作を撮らなくなってしまったスピルバーグの若き日の記念すべき作品と言えます。

映画撮影時、映画記者に香港のクラブでホステスが「Anything Goes」を唄い始めるような映画は作らないよと明言していたスピルバーグですが、この話は彼流のジョークで、映画は「Anything Goes」からはじまります。今回のもう一人の主演はキー・ホイ・クワンで、独特のキャラを熱演しています。


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レイダース (インディ・ジョーンズ) [アメリカ映画(80s)]


Indiana Jones and the Raiders of the Lost Ark (1981)

「未知との遭遇」をヒットさせたスピルバーグと「スターウォーズ」公開直前でヒットの確信がもてないジョージ・ルーカスは偶然ハワイに滞在していました。スリルバーグはヒットに安堵し休暇をとりにハワイに滞在していたのでしょう。ルーカスは、ヒットしないと言われたSF映画を完成させたものの、予算は超過しヒットしなかったら今後の映画業界での自分の居場所がなくなるのではという不安から、アメリカ本土、すなわち「大ヒット監督」になったのでした。

お互いヒット映画を監督した同世代の映画おたくとして、二人はハワイで会いました。実は、ルーカスはUSCの学生時代から才能がある生徒として有名で、USCの受験に失敗し芽が出なかったスピルバーグはある学生映画祭で彼に出会っていましたが、当時は話をすることは叶わなかったそうです。

二人は映画談義に花が咲き、二人で映画を作りたいという話題になりました。スピルバーグは昔から好きだった007シリーズを作りたいと話したそうです。そのとき、ルーカスが言いました「もっと面白いシリーズを作りましょう。私にはアイデアがあります。」

こんな経緯で生まれたのがインディ・ジョーンズ・シリーズです。このシリーズはプロデューサーをジョージ・ルーカスが勤め、監督をスピルバーグが受け持つことになりました。今では映画史に残るドリームチームです。

撮影中、浪費家のスピルバーグをルーカスは指導しました。例えば、洞窟のシーンは別の映画のセットの使い回しです。この映画でスピルバーグは「予算」と「時間」を扱える真の監督として生まれ変わることが出来ました。

映画は1981年に公開され、世界中で大ヒットしました。ルーカスの歴史に沿った緻密なストーリー設計とダイナミックでわくわくさせるスピルバーグの演出はシリーズ3作中で一番うまく相乗効果をあげています。主演は「スターウォーズ」で人気が出たハリソン・フォード。彼の寂しげな表情と激しいアクションに観客は魅了されました。

<その後のシリーズ>
「インディ・ジョーンズ」は、その後様々な展開をすることになります。映画は全3作製作され、インディの若き日を描いたシリーズがテレビドラマ化されました。さらにゲームになったり、ディズニーランドのライドにもなりました。2005年時点でインディの映画第4作目の製作が発表されていますが、実際に撮影されるかどうかは未定です。

尚、インディ・シリーズについてHPを制作していますので、より詳しい情報は以下をご覧ください。
http://indyjones.hp.infoseek.co.jp/


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バットマン [アメリカ映画(80s)]


BATMAN(1989)

奇才ティム・バートンが見事に脚色し直し、現代の新しいヒーローとして見事に生まれ変わった「バットマン」。
公開前にワーナーブラザースから、監督がティム・バートン、そして主人公がマイケル・キートンと発表されたとき、熱狂的な漫画ファンから物凄い反発がありました。ワーナーには連日講義の電話が殺到し、ニュースになるほどでした。これに驚いたワーナーは急遽「バットマン」のデモリールを一般に公開するという対抗措置をとりました。

デモリールは、テレビで何度も放送され、その結果、クレームの電話はなくなりました。それほど威力のあった映像は、もちろんバートン監督によるもので、そこには、今まで映像化されたことのない、そしてファンですら想像できない程素晴らしいゴッサムシティが映し出されていたのです。バートンは、見事に自身のバットマンに対するイメージを実態化させ、撮影を進めていたのです。

今でこそ、ティム・バートン監督は名前でお客さんが呼べる数少ない名監督ですが、公開当時はまだまだ無名で芸術性の強い監督というイメージがありました。しかし、バットマンの衣装デザインや美術デザインは、監督が自分で書いたスケッチを基に制作され、全てが独特の統一感で支配されていったのでした。

公開前には、ワーナーは全米のビルボードを占拠し、例のバットマンマークを並べました。そこには映画とかタイトルロゴは一切なく、ただ、あのコウモリマークだけが描かれてました。でも街でビルボードを見た人の誰もが映画「BATMAN」の公開が近づいていることを悟りました。同時にMTVでは、プリンスによるBATDANCEがヘビーローテーションで放送されました。私は当時NYに住んでいましたが、1日に最低10回はあの音楽を聴くことになる程の超ヘビーローテーションだったことを記憶しています。

<その後のシリーズ>
映画は大成功し、後に「BATMAN Returns」(1992)、「BATMAN Forever」(1995)、「BATMAN & ROBIN」(1997)が製作されますが、Forever以降は監督も変わり人気が失速してしまいます。2004年にはスピンオフ企画「Catwoman」が製作されましたが、これも失敗。ゴールデンラズベリー賞を受賞すると言うおまけまでついてしまいました。

やはりティム・バートン監督でないとバットマン映画は面白くないという意見が大勢を占めていた2005年、「メメント」のクリストファー・ノーランがメガホンを取り、新作を制作しました。それが「Batman Begins」です。バートン以来の正当性のある力作に仕上がっていて、アメリカではヒットしました。


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